HISTORICAL PERSON · 1975年没

パウリ・ケレス

エストニア出身のチェスの名手。世界王座の決定戦では同率3位に終わり、挑戦者決定大会でも4度連続2位となったため、無冠の最強棋士と呼ばれた。

生涯
1975年没
死亡地
フィンランド共和国(ウーシマー県 / ヘルシンキ)
出生地
エストニア共和国(ナルヴァ)
出典
世界地図
フィンランド共和国(ウーシマー県)

伝記

パウリ・ケレスは、1916年1月7日、ロシア帝国領エストニア県のナルヴァ市のすぐ外にあった村ヨアオルで、父ペーテルと母マリーの子として生まれたエストニアのチェス棋士である。2歳のときにエストニアは独立国となった。育ったのはパルヌの町で、4歳のころ父がチェスを指すのを見て覚えたとされ、兄ハラルドからも手ほどきを受けたという。この兄は後に著名な物理学者となり、教え子に「私はパウルの兄ではない。パウルが私の弟なのだ」と冗談を言ったという。故郷にはチェスの文献が乏しく、ケレスは日刊紙に載るチェス問題から棋譜の記法を学び、千局近い棋譜を手書きで集めた。若いころは鮮やかで鋭い攻めの棋風で知られた。

故郷の近くに国際大会がなかったため、ケレスは郵便チェスを盛んに指した。高校時代におよそ500局を指し、一時は150局を同時に進めていたとされる。学童の全国選手権では1930年、1932年、1933年に優勝し、1935年には国際郵便チェス連盟の国際選手権を制した。1937年から1941年にはタルトゥ大学で数学を学び、大学対抗戦にも出場した。17歳で出たタリンのマスター大会では、7局で5勝を挙げて3位から4位に並んだ。1935年にはガンナル・フリーデマンと並んで首位となり、決定戦にも勝ってエストニア王者となった。同じ年のワルシャワのチェス・オリンピアードではエストニア代表として出場し、華やかな棋風で新星と見られた。

1936年にはバート・ナウハイムの大会で、当時の世界王者アレクサンドル・アレヒンと首位を分けた。続くドレスデンでは8位から9位にとどまったが、この挫折から大切な教訓を得たと自ら書いている。1937年は成果の続いた年で、マーゲイトではルーベン・ファインと首位を分けてアレヒンを1.5ポイント引き離し、プラハでは11局で10ポイントを挙げて優勝した。その勢いでセメリング・バーデン大会に招かれ、ファイン、カパブランカ、レシェフスキーらを抑えて優勝した。ケレス自身はこの大会を「挑戦者決定戦」と呼び、優勝でグランドマスターと認められたと述べているが、国際チェス連盟が称号を正式に定めたのは1950年のことである。1938年にはアーヴロ大会で優勝し、世界王者アレヒンとのタイトル戦の交渉に進んだ。しかし1939年に第二次世界大戦が始まり、この試合は行われなかった。

戦時中のエストニアは何度も侵攻と占領を受け、ケレスは情勢に迫られて、1940年から1941年と1944年から1975年にはソビエト連邦の、1941年から1944年にはナチス・ドイツの代表として国際大会に出た。1948年に世界王者の座が空位となると、ボトヴィニク、スミスロフ、エーワ、レシェフスキーとの5人で新王者を争ったが、同率3位に終わった。その後も1953年から1962年にかけて、挑戦者決定大会で4回続けて2位となり、ついに挑戦者にはなれなかった。そのため「世界王者になれなかった最強の棋士」と呼ばれ、ソビエト連邦選手権では3度優勝している。エストニアでは「永遠の2番手」「チェス界の皇太子」などの愛称で親しまれた。気品ある物腰と公正さで人気を集めた人物だったと、アメリカの新聞は伝えている。1975年6月5日、心筋梗塞のためフィンランドの首都ヘルシンキで59歳で死去した。エストニアでは2011年にユーロへ移行するまで、5クローン紙幣にその肖像が印刷されていた。

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