伝記
ドミートリイ・ドミートリエヴィチ・ショスタコーヴィチは、1906年9月25日(ロシア暦9月12日)、ロシア帝国の首都サンクトペテルブルクに生まれた作曲家である。両親は音楽好きで、幼いころから声楽やピアノを耳にする環境に恵まれた。1915年には母に連れられてリムスキー=コルサコフのオペラを観劇し、同じ年の夏には母から初めてピアノの手ほどきを受けた。上達はまたたく間で、作曲もこのころ始めている。1917年の二月革命の最中には、街路で同年配の少年が警官に殺されるのを目撃した。1919年にペトログラード音楽院へ入学し、グラズノフに師事した。入試対策では両親が指揮者のジロティに作曲の実力を酷評されたが、作品を聴いたグラズノフは「モーツァルト的才能」と評した。1922年に父を亡くし、結核の療養で訪れたクリミアでは初のピアノ・リサイタルを開いた。
1925年に音楽院作曲科の修了制作として書いた交響曲第1番は、1926年5月に初演され、国際的な注目を集めた。1927年の第1回ショパン国際ピアノコンクールにも出場している。1928年のオペラ『鼻』は上演計画が歌手の反発で頓挫し、組曲に編まれて初演された。同じ演奏会の「タヒチ・トロット」は大成功したが、第一次五カ年計画とプロレタリア音楽家協会の台頭のなかで、軽音楽やジャズは「ブルジョア的」だと批判された。映画音楽や劇音楽、バレエ『黄金時代』『ボルト』も手がけ、1931年には同協会を批判する論文を発表した。1932年に科学者のニーナ・ヴァルザルと結婚し、歌劇『ムツェンスク郡のマクベス夫人』を彼女に献呈した。
1936年1月、このオペラは、バレエ『明るい小川』とともにプラウダ紙の批判を受けた。大粛清が吹き荒れる時代で、作曲活動にも暗い影が落ちた。1937年に作曲し11月21日に初演した交響曲第5番の成功で、名誉を回復したとされる。同年からレニングラード音楽院で教え、1941年に交響曲第7番を書き、翌年の初演は成功して米国でも演奏された。この曲は1942年にスターリン賞第1席を受けている。戦後の1948年には、プロコフィエフ、ハチャトゥリアンとともに社会主義リアリズムに反するとしてジダーノフ批判の対象となり、音楽院の教授職を解任された。一方で1949年に作曲したオラトリオ『森の歌』は、1950年にスターリン賞第1席を受けた。
1954年に妻ニーナ、翌1955年に母を亡くし、1957年には作曲家同盟の初代委員長となった。1958年に右手の麻痺で入院して以後、手の治療や骨折などによる入院が続いた。1961年にソビエト共産党員となり、1962年にはイリーナ・スピーンスカヤと再婚した。1966年には生誕60周年記念演奏会の後に心筋梗塞を起こし、社会主義労働英雄の称号を受けた。1971年にも2回目の心筋梗塞で入院している。晩年も1969年に交響曲第14番を書き、1975年に最後の作品『ヴィオラ・ソナタ』を完成させた。同年8月9日、モスクワの病院で肺がんのため亡くなり、8月14日にノヴォデヴィチ墓地へ埋葬された。シベリウス、プロコフィエフと並んで、マーラー以降の最大の交響曲作曲家としての評価がほぼ確立しており、弦楽四重奏曲にも優れた作品を残した。
同じ年に亡くなった人物
- アントニーン・ノヴォトニー (1975年没)
- アルネ・ハルセ (1975年没)
- サイド・ナズルル・イスラム (1975年没)
- ジョセフ・カレイア (1975年没)
- オスカー・ペロン (1975年没)
同じ地域に関係する人物
- Roman Viktiuk (2020年没)
- タチアナ・ザスラフスカヤ (2013年没)
- コンスタンチン・フェージン (1977年没)
- フセヴォロド・メイエルホリド (1940年没)
- ナタリヤ・ナルイシキナ (1694年没)