伝記
オットー・ヨハン・アントン・スコルツェニーは、1908年6月12日に生まれ、1975年7月6日に没したドイツの軍人である。武装親衛隊に属し、最終階級は親衛隊中佐。コマンド部隊の指揮官として奇襲や極秘作戦に従事したことから、「ヨーロッパで最も危険な男」と呼ばれた。
ウィーンの中産階級の家庭に生まれ、身長192センチ、体重90キロの偉丈夫であった。ウィーン工科大学在学中はフェンシング選手として知られ、学生決闘を15回行い、10回目で頬に大きな傷を残したという。1931年にオーストリア・ナチ党に加わってすぐ突撃隊に入り、1938年3月のドイツによるオーストリア合邦の際には、併合協定への調印を拒んだミクラス大統領をナチスの暴漢から守った。
第二次世界大戦が始まると、土木技師だった彼は空軍に志願したが、30歳を越えていたため入隊できなかった。代わりに親衛隊特務部隊に入り、1940年2月に親衛隊の師団の一員として実戦に加わる。東部戦線では技術将校として戦車や車両の整備にあたったが、1941年冬、待避壕で話をしていた最中にカチューシャロケットの攻撃を受けて後頭部を負傷し、本国へ送還された。1942年初頭からはベルリンの補給所で技術関係の勤務についていたが、やがて親衛隊作戦本部から、技術的訓練を受けた将校で特殊任務を果たせる人材が必要だと告げられる。ドイツにもイギリスのようなコマンド部隊を置く時が来たという話であり、1943年4月に予備役大尉へ昇進して特別教育課程の隊長に就いた。部隊は当初1個中隊ほどで、武器も鹵獲品ばかりだったが、ニーチェの「危険を冒して生きよ」を座右の銘とする彼は諦めず、大学以来の旧友カール・ラドルを副官に迎え、空挺大隊やブランデンブルク大隊などから兵を集めた。オランダでは二重スパイを使い、イギリスが抵抗組織へ送った爆薬や短機関銃などを手に入れて装備を整えた。
1943年7月25日、総統大本営に呼ばれた彼は、ヒトラーに「イタリアを知っている者は誰か」と問われ、唯一答えた。「私はオーストリア人です」という返答がヒトラーの目に留まり、幽閉されたムッソリーニの救出を直接命じられる。9月12日、グラン・サッソ山頂のホテルにムッソリーニがいると突き止めると、グライダーで降下し、戦闘を起こすことなく無傷で救出した。ムッソリーニは「友人が私を見捨てない事は知っていたよ」と述べて抱擁したという。この功績でSS少佐に昇進し、騎士十字章を受けた。
その後も任務は続いた。1944年5月にはユーゴスラビアのパルチザン指導者チトーの誘拐を狙うレッセルシュプルング作戦を指揮したが、洞窟の司令部に着いたときチトーは数分前に脱出しており、失敗に終わった。7月20日事件ではベルリンでクーデター派の鎮圧に協力した。10月にはハンガリーに送られ、ソ連との講和を探るホルティ摂政の息子を誘拐した。同年末のアルデンヌ攻勢では、アメリカ軍に偽装した部隊を率いて後方を攪乱するグライフ作戦を指揮し、捕らえられた兵の自白からアイゼンハワー襲撃の噂が広まって、警備が強化される事態となった。1945年1月にはヒムラーの命令でオーデル川東岸に橋頭堡を築くべく、傷病兵や国民突撃隊などを寄せ集めて歩兵4個大隊に匹敵する兵力を整えた。
同じ年に亡くなった人物
- ゴットロープ・ベルガー (1975年没)
- Pitigrilli (1975年没)
- Sheila Ryan (1975年没)
- テオドシウス・ドブジャンスキー (1975年没)
- ムハンマド・マンスール・アリー (1975年没)
同じ地域に関係する人物
- マリア・デ・ラス・メルセデス・デ・オルレアンス (1878年没)
- ネジラ・スルタン (2006年没)
- フアン・バウティスタ・マイーノ (1649年没)
- ファウスト・デ・エルヤル (1833年没)
- カミーロ・ホセ・セラ (2002年没)