HISTORICAL PERSON · 1975年没

グラハム・ヒル

イギリスのレーシングドライバーで、1962年と1968年のF1チャンピオン。モナコGPで通算5勝を挙げてミスター・モナコと呼ばれ、実子のデイモンも王者となった。

生涯
1975年没
死亡地
イギリス連邦(バーネット区 / アークリー)
出生地
イギリス連邦(ハムステッド)
出典
世界地図
イギリス連邦(バーネット区)

伝記

ノーマン・グラハム・ヒルは、1929年2月15日にロンドンのハムステッドで生まれたイギリスのレーシングドライバーである。父は株式仲介人で、それほど裕福ではない中流家庭で育った。ヘンドン・テクニカルカレッジで工学を3年間学び、スミス社で技師として働くかたわら、ミッドランドの大学にも通って専門的に工学を学んだ。1950年、21歳でイギリス海軍の兵役に就き、軽巡洋艦スウィフトシュアの機関室で技師を務めて兵曹に昇進した。

兵役後はスミス社に復帰したが、1953年に「ブランズ・ハッチで1周5シリングでF3カーを走らせることができる」という雑誌広告を見つけ、1ポンドを払って4周走ったことでレースに魅せられた。会社を辞め、失業手当を受けつつレーシングスクールのメカニックとなり、整備を無償で引き受ける代わりに学校の車両でレースに出場し始める。やがてコーリン・チャップマンと知り合い、1954年にロータスへメカニックとして加わった。ほどなくドライバーとしても走るようになり、1958年、29歳でF1デビューを果たしたが、2年間は芳しい成績を残せなかった。1960年にBRMへ移ると、1962年の開幕戦オランダGPで初優勝し、この年4勝を挙げてロータスのジム・クラークを破り、初のドライバーズチャンピオンに輝いた。リッチー・ギンサーとの名コンビで活躍し、1964年は最終戦までタイトルを争ったが、ポイントリーダーでありながらフェラーリのロレンツォ・バンディーニに追突され、タイトルはジョン・サーティースに渡った。ヒルはこれを「ただ恐ろしく運転が下手だっただけだ」と皮肉混じりに評した。

1966年は6シーズンぶりの未勝利に終わり、ヒルはロータスへ移った。1967年はクラークとの共同ナンバー・ワン体制となったが、ロータス49はエンジンやギアボックスの不調に悩まされ、優勝はできなかった。1968年にクラークがF2のレース中の事故で亡くなると、意気消沈したチームのスタッフを自らの走りで奮い立たせ、この年3勝を挙げて6年ぶり2度目のチャンピオンとなった。1969年のモナコGPで挙げた5度目の同GP優勝が最後の勝利となり、同年のアメリカGPで脚を骨折した。モナコGPでの通算5勝は当時の最多で、「ミスター・モナコ」と呼ばれた。モナコGP、インディ500、ル・マン24時間の三つすべてを制した唯一のドライバーでもある。

1970年からはプライベーターとしてロータスで走ったが、かつての速さは戻らなかった。1973年に自らのチーム、エンバシー・ヒルを結成し、1975年のスペインGPからは自社製シャシーで参戦したものの、モナコGPで予選落ちを喫し、このレースを最後にドライバーを引退して監督業に専念した。F1での出走は176戦にのぼる。1975年11月29日、フランスでの翌年用マシンのテストからの帰途、自ら操縦する軽飛行機が霧の中で着陸を試みてアークリーのゴルフ場に墜落し、搭乗していた6名全員が亡くなり、その中には期待の若手トニー・ブライズもいた。事故調査局の報告書は、霧の中で早く高度を下げた可能性を示唆している。遺体はシェンリーの聖ボトルフ墓地に葬られた。

ヒルは1955年に元ボート選手のベティ・シャブルックと結婚し、3人の子をもうけた。長男デイモンは父の死の時に15歳で、のちに自身もF1チャンピオンとなり、ヒル父子は親子でF1王者となった初の例である。口ひげをたくわえた紳士的な風貌は、モータースポーツに関心の薄い人々にも人気を集めた。

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