伝記
フランシスコ・フランコ・バアモンデは、1892年12月4日にスペイン北西部ガリシア地方のエル・フェロルで生まれた軍人であり政治家である。エル・フェロルは海軍基地のある町で、父も祖父も海軍の軍人であり、ともに海軍主計准将まで昇った。5人兄弟の二男で、母を人生の師としていたという。父や祖父と同じ海軍を志したが、軍縮で海軍が募集を中止したため、1907年にトレドの陸軍歩兵士官学校に入り、1910年に卒業して少尉となった。
1912年にスペイン領モロッコに着任し、反乱が頻発する現地で経験を積んだ。1925年9月のリーフ地方への上陸作戦では青年将校として活躍し、1926年に准将となった。33歳の将官は当時のヨーロッパで最年少であったという。1934年にアストゥリアス地方で革命運動が起きると、モロッコ駐留軍も投入して鎮圧し、翌1935年には陸軍参謀総長となった。しかし1936年2月の選挙で左派が辛勝すると参謀総長を解任され、カナリア諸島司令官に左遷された。
同年7月にモロッコの駐留軍が決起し、フランコは現地へ飛んで指揮権を握り、モロッコ部隊を本土へ輸送した。この反乱はスペインを二分する内戦に発展した。当初のフランコは反乱側の一指揮官にすぎなかったが、サンフルホが飛行機事故で死に、緒戦で反乱軍が敗北を重ねて長期化の様相を見せると、戦功のあるフランコと人望の高かったモラが人気を二分するようになった。1936年10月1日、ブルゴスで反乱軍の総司令官に指名されて国家元首に就き、大元帥とカウディーリョ・デ・エスパーニャ、すなわち総統の称号を用いた。1937年6月にモラが乗機の墜落事故で死ぬと、最高指導者の地位は固まった。ドイツやイタリアの支援を受けた反乱軍は、1938年4月に地中海へ達して共和国の支配地域を南北に分断し、同年7月の共和国側の大攻勢が失敗に終わると勝利が決定的になった。1939年1月にバルセロナ、3月27日にマドリードが陥落し、4月1日にフランコは内戦の終結を宣言した。内戦では軍民合わせて数十万人が死亡し、国土の荒廃も著しかった。
第二次世界大戦が始まると、フランコは国力が参戦に耐えないとして中立を宣言したが、ドイツの優勢を見て1940年6月に非交戦宣言へ移り、枢軸国に便宜を図った。同年10月にはアンダイエでヒトラーと会談し、参戦の意思を示した。しかしイギリスの奮戦や英米への経済的な依存から参戦の意欲は薄れ、翌年には合意を無効とし、参戦要求をかわし続けた。一方で1941年のバルバロッサ作戦の後には青師団を編成して東部戦線へ送った。1943年ごろから連合国の優勢が明らかになると再び中立を固持し、1944年には連合国側の非難を受けて青師団の撤兵を約束している。結果としてスペインは自国と植民地の戦禍を免れたが、その姿勢は連合国、とりわけアメリカの不信を招いた。1959年12月にはアイゼンハワー大統領と会見し、両国の関係は大きく改善した。国内では、1966年に任命制の議員の一部を選挙制に切り替える一方、公の場でのカタルーニャ語やバスク語の使用を禁じるなど強硬な姿勢もとり、ETAによるテロが活発化した。また、1947年には王位継承法を制定して終身国家元首と後継の国王の指名権を得た。フランコは1975年11月20日に死去し、長い独裁は幕を閉じた。
同じ年に亡くなった人物
- ジュリアン・ハクスリー (1975年没)
- ヴィットリオ・グイ (1975年没)
- ジョルジュ・カルパンチェ (1975年没)
- シソワット・シリク・マタク (1975年没)
- ジョゼフ・ギルモ (1975年没)
同じ地域に関係する人物
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- グレゴリオ・ベニト (2020年没)
- フェリペ3世 (スペイン王) (1621年没)
- アントニオ・マウラ (1925年没)
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