伝記
ヘンリー7世は、1457年1月28日にウェールズのペンブルック城で生まれ、1509年4月21日に没したテューダー朝初代のイングランド王である。在位は1485年8月22日から没年までで、ボズワースの戦いでリチャード3世を破って王位を得た。戦いで王座を得た最後のイングランド王とされる。
父はリッチモンド伯エドマンド・テューダーで、誕生の3か月前に世を去っていた。母は当時13歳のマーガレット・ボーフォートである。祖父オウエン・テューダーは古いウェールズ君主の血をひきながら、ヘンリー5世の未亡人キャサリン・オブ・ヴァロワに仕える下級貴族に過ぎなかったが、彼女と結婚し、生まれたエドマンドはヘンリー6世の異父弟となった。王位継承権は主に母方のボーフォート家に由来したが、その祖ジョン・ボーフォートは庶子で、継承権の放棄を課されており、女系でもあったため疑問符が付いていた。幼いころは叔父ジャスパー・テューダーの保護を受けてウェールズで暮らした。1471年にヘンリー6世と王太子が殺されると、ランカスター家の血を引く最後の男子となって命を狙われるようになり、叔父に連れられてフランスに渡り、ブルターニュに匿われて14年間をそこで過ごした。
1483年、エドワード4世の長女エリザベス・オブ・ヨークと婚約した。ブルターニュ公の援助でイングランド上陸を試みたが、嵐で失敗し、同調者のバッキンガム公は処刑された。フランス王ルイ11世から軍勢と装備の援助を得て2度目の準備を行い、フランス兵やスコットランド兵を率い、ウェールズのペンブルックシャーに上陸して進軍した。ウェールズ兵を加えて5000に膨れ上がった軍は、1485年8月22日のボズワースの戦いで、リチャード3世の8000の軍に勝った。リチャード3世側の貴族の多くが日和見し、ウィリアム・スタンリー卿と継父トマス・スタンリーの兄弟らが決定的な時に寝返り、リチャード3世は戦死して薔薇戦争は事実上終結した。
1486年にエリザベスと結婚してランカスター家とヨーク家を統合し、赤薔薇と白薔薇を組み合わせたテューダー・ローズを紋とした。即位後は僭称者が相次いだ。1487年にはランバート・シムネルが担がれてストーク・フィールドで敗れたが、大人に操られただけだとして厨房の召使とされた。1490年にはパーキン・ウォーベックが、エドワード4世の次男ヨーク公リチャードを名乗り、国際問題となったが敗れて捕らえられた。1499年、パーキンは幽閉中のウォリック伯エドワードとともに脱走を図って失敗し、二人とも処刑された。
在位中は財政担当者を変えず、破産状態の財政に安定をもたらし、貨幣と度量衡を統一した。不当な手続きで富裕層に罰金を課した。外交は平和の維持による繁栄を旨とし、王太子アーサーをスペイン王女キャサリン・オブ・アラゴンと、娘マーガレットをスコットランド王ジェームズ4世と婚約させた。星室裁判所を用いて貴族の専横を抑え、王権を回復した。海軍の重要性を理解し、世界初の乾ドックを建設して貿易を振興し、毛織物工業のために羊毛関税を上げ、ネーデルランドから職人を招いた。1502年に粟粒熱で王太子アーサーを亡くし、次男ヘンリーが世継ぎとなった。1509年、結核によりリッチモンド宮殿で52歳で亡くなり、ヘンリー8世が後を継いだ。
同じ年に亡くなった人物
- ヨハン1世 (プファルツ=ジンメルン公) (1509年没)
- ジョアン・ダ・ノーヴァ (1509年没)
- アダム・クラフト (1509年)
- バーント・ノトケ (1509年)
- ヴィルヘルム2世 (ヘッセン方伯) (1509年没)
同じ地域に関係する人物
- ルーシー・ダフ=ゴードン (1935年没)
- ジョン・ギルバート・ベイカー (1920年没)
- ジェームズ・H・ウィルキンソン (1986年没)
- マリー・ドルレアン (1865-1909) (1909年没)
- エドワード・サビーン (1883年没)