伝記
華雄は、中国後漢時代末期の武将である。生年は分からず、191年に没した。董卓配下の武将で、『三国志』では「都督」とされる。ただし清代の史学者である潘眉の説では、正しくは「都督」ではなく「都尉」の地位にあったとされ、ちくま学芸文庫版の和訳もこれに従って「都尉」と訳している。フランス語圏では、138年に生まれ、涼州の反乱の鎮圧のころから董卓に仕えていたとする記述もある。
正史における華雄の事跡は、『三国志』呉書の孫堅伝にしか見当たらない。初平2年(191年)、華雄は呂布とともに胡軫の配下として従軍し、孫堅の討伐に向かった。ところが胡軫と呂布の仲が悪く、呂布が偽りの通達を出して胡軫を惑乱させたため、董卓軍は勝利を得られなかった。華雄は陽人の戦いで戦死し、その首は孫堅の手で梟首にされた。陽人は現在の河南省汝州市温泉の近くと考えられている。なお戦いの年については、190年の初めに、函谷関より東の諸侯が董卓から漢の朝廷を解放するとして兵を挙げたときのこととする説明もある。
小説『三国志演義』の華雄は、正史とは見違えるほど活躍する。身の丈九尺(約210センチ)の豪傑で、関西の人とされる。反董卓連合軍が結成されると、最初は呂布が迎撃に向かおうとしたが、華雄は「鶏を切るのに牛刀は要らぬ」と自ら名乗り出た。董卓に気に入られて驍騎校尉に任じられ、汜水関の守将として五万の兵で連合軍を迎え撃つ。抜け駆けして攻めてきた鮑信の弟の鮑忠は、五百の兵で出撃した華雄に斬られ、その首は董卓に送られて、華雄は都督に昇進した。
続く孫堅軍との戦いでは、兵糧が届かず衰弱した孫堅軍に夜襲をかけた。李粛が後方から火を放ったこともあって孫堅軍は混乱し、華雄は敗走する孫堅を追った。赤い頭巾を目印に追ったが、祖茂が頭巾と兜を入れ替えて囮になったため孫堅を取り逃がし、のちに襲いかかってきた祖茂を返り討ちにした。その後は孫堅の帽子を竿に掲げて連合軍を挑発し、出てきた袁術軍の兪渉と韓馥軍の潘鳳を討ち取った。袁紹は、配下の猛将である顔良・文醜がまだ着陣していないことを嘆いた。
しかし、続いて出てきた関羽に、華雄は一合で討ち取られてしまう。出陣のときに曹操が差し出した酒が、関羽が戻ったときにもまだ温かかったという逸話で知られる。『演義』では胡軫が華雄の副将とされ、史実とは上下関係が逆になっている。
同じ年に亡くなった人物
- 成務天皇 (191年)
- ヴォロガセス4世 (191年没)
- ブルッティア・クリスピナ (191年没)
同じ地域に関係する人物
該当人物はまだありません。