伝記
ジョアン・ベルキオール・マルケス・グラールは、1919年3月1日にブラジル南部リオグランデ・ド・スル州のサン・ボルジャ近郊、イタクルビにあるイグアリアサ農場で生まれた政治家で、通称をジャンゴという。生年を1918年とする資料が多いが、実際は1919年で、リオグランデ・ド・スル連邦大学の法学部に進むため、父が年齢を1歳足した出生証明書を作らせたとされる。父ヴィセンテは大きな牧場を持つ牧場主、母ヴィセンチナは主婦であった。農場は人里離れ、出産のとき母には医療の手当てがなく、生まれたとき死にかけて見えた赤子を蘇らせたのは母方の祖母だったという。祖母は洗礼者ヨハネに祈り、赤子が助かれば名を継がせ、3歳まで髪を切らないと誓ったと伝わる。
ジャンゴはブラジル南部でジョアンを指す通称で、幼いころは「ちびのジャンゴ」と呼ばれた。6人の姉妹とともにやせた子として育ち、2人の弟は早くに亡くなっている。父がジェトゥリオ・ヴァルガスの兄弟プロタジオと組んで冷蔵倉庫の事業を営んだことから、イタキの学校に通った。その後ウルグアイアナの学校に移ったが、1931年には落第し、怒った父に州都ポルト・アレグレのアンシエッタ校へやられた。成績にはむらがあった。サッカーが得意で、右のバックとして地元クラブ、インテルナシオナルの少年チームに選ばれ、1932年には少年の部の州王者となった。法学部では父の望みで学んだが、学生時代の遊びのなかで梅毒に感染し、左膝がほとんど麻痺したことで知られる。
実業家としては、1941年から1945年にかけて、所有する牛を担保に銀行から資金を借りて牧畜業を広げ、財産を築いた。従業員にはとても親切であったという。1945年に誘いを受けて入党し、1947年には同郷のヴァルガス前大統領の説得で州議会議員選挙に出馬して当選した。任期の後は州の内務・司法長官を務めている。1951年の連邦下院議員選挙で初当選を果たしてその後も2回再選され、1953年には初めて入閣した。1955年の副大統領選挙には3,591,409票を得て当選し、翌1956年に副大統領に就任した。同年4月にはニクソンの訪問の返礼で米国を訪れ、共産主義の問題を話し合ったが、グラールはそれをブラジル国内の懸案と見ていた。続いて夫人とカナダを訪れ、非公式にヨーロッパ、メキシコ、ウルグアイも訪れた。
1961年9月8日に大統領へ就任した。「統一、民主主義、改革」を掲げ、非同盟外交で第三世界諸国と協力関係を築き、ソビエト連邦との貿易も再開した。産業や外資の国有化を進めて価格統制も始め、農業、教育、税制、選挙、都市、銀行などに「抜本改革」と称して取り組み、汚職や腐敗の根絶をめざした。しかしこれらの政策は西側諸国の反発を受け、軍部からの批判も高まった。1964年4月1日、グラールを危険視して陸軍将校に共産主義の危険を警告する回覧を送っていたカステロ・ブランコ将軍がクーデターを起こし、グラールは大統領の座を追われた。その後のブラジルはグラールの政策とは逆の姿勢で統治されることになった。グラールは1976年12月6日に世を去った。
同じ年に亡くなった人物
- パーシー・フェイス (1976年没)
- ドゥアルテ・ヌノ・デ・ブラガンサ (1976年没)
- ヴァルター・フォン・ザイトリッツ=クルツバッハ (1976年没)
- マル・エヴァンズ (1976年没)
- Zofia Stryjenska (1976年没)
同じ地域に関係する人物
- エメ・ボンプラン (1858年没)
- サンティアゴ・デルキ (1867年没)