伝記
ジャン・ポール・ゲティは、1892年12月15日にミネアポリスの裕福な家庭に生まれたアメリカ合衆国の実業家で、石油王、そして美術品の収集家である。祖父の代に北アイルランドから移民した長老派の一族の出で、父ジョージ・ゲティは弁護士だった。1903年、父は油田が見つかって石油ブームに沸くオクラホマへ移り、鉱業権を買い入れて石油会社を興し、財を成した。一家はやがてロサンゼルスに移り住んだ。ゲティは十代で軍事学校や高校に通い、フランス語、ドイツ語、イタリア語に通じ、古典を愛して古代ギリシャ語とラテン語も読めるようになったとされる。1910年に両親と欧州を旅して魅せられ、1912年にはオックスフォード大学に入り、1913年6月に経済学と政治学の修了証書を得た。
1914年に両親とともにアメリカへ戻り、同年の秋、父から1万ドルを預かって油田の権利の購入に充てた。最初に買ったオクラホマ州ハスケル近郊の井戸は1915年8月に石油を噴き、翌年の夏には、そこから得る40パーセントの純生産ロイヤルティで、23歳の若さで100万ドルを稼ぐ身となった。父の死後は金銭をめぐって母と不仲になったが、買いたたきと見切り価格の良さで事業を伸ばし、世界恐慌の際には全従業員を解雇してから安く雇い直したと伝えられる。パシフィック・ウェスタン石油を手に入れ、1953年までにミッション社を取得し、1967年にこれらをゲティ・オイルに統合した。1948年から翌年にかけては、サウジアラビアのイブン・サウードに現金950万ドルを払い、中立地帯の利権を得た。石油が出たのは1953年3月である。戦後はイギリスの大邸宅に移り住んだ。石油やホテルなど関連会社を多数保有し、フォーチュン誌で世界一の大富豪に選ばれた。
一方で私生活は波乱に満ち、5人の女性と結婚しては離婚し、長男ジョージら5人の息子をもうけた。長男は会社の運営を任されたが、49歳のときストレスから自殺している。また「類まれなケチ」としても知られ、自宅の客が使う電話に公衆電話を置いて料金を客に払わせた、10年以上持つ靴やネクタイしか買わなかった、といった逸話が伝わる。
1973年7月10日、孫のジョン・ポール・ゲティ3世が16歳でローマで誘拐され、1,700万ドルの身代金が要求された。家族の一部は、放蕩な生活を送っていた孫の狂言ではないかと疑った。ゲティ自身は、支払えば他の孫たちも狙われると主張して拒み続けた。11月に切り落とされた耳と髪が入った封筒が新聞社に届くと、ゲティはようやく支払いに同意したが、所得から控除できる最大額の220万ドルにとどめ、残りは4パーセントの利子で息子に貸し付けた。交渉の末の約290万ドルで孫は12月15日に解放された。
ゲティは1976年6月6日、がんで死去した。多額の費用をかけたゲティ美術館が完成したのは死の2年前で、生涯一度も訪れることはなかった。1953年にゲティ信託を設立しており、死後は遺産の大部分が美術館を管理するゲティ財団へ託され。美術館に遺された額は6億6,100万ドルを超えるという。これに不満な一族は泥沼の訴訟を長く続けた。ゲティ石油は、のちに一族によってテキサコへ売却された。
同じ年に亡くなった人物
- ローレンス・スティーヴン・ラウリー (1976年没)
- パヴレ・カラジョルジェヴィチ (1976年没)
- ハイルッディーン・ズィリクリー (1976年没)
- Giovanni Gozzi (1976年没)
- レナータ・ヴィガノ (1976年没)
同じ地域に関係する人物
- ドン・トンプソン (2006年没)
- エイブラハム・カウリー (1667年没)
- ヘレン・アリンガム (1926年没)
- ルイス・キャロル (1898年没)
- マーガレット・スクリブン (2001年没)