HISTORICAL PERSON · 1976年没

ヴェルナー・ハイゼンベルク

ドイツの理論物理学者。行列力学と不確定性原理によって量子力学に絶大な貢献をした。ミュンヘン大学のゾンマーフェルトに学び、コペンハーゲンでボーアに師事した。

生涯
1976年没
死亡地
ドイツ連邦共和国(バイエルン州 / ミュンヘン)
出生地
ドイツ連邦共和国(ヴュルツブルク)
出典
世界地図
ドイツ連邦共和国(バイエルン州)

伝記

ヴェルナー・カール・ハイゼンベルクは、1901年12月5日、ドイツ南部バイエルンのヴュルツブルクに生まれた理論物理学者である。曽祖父アドルフ・ツァイシンクは古典文献学者で、黄金比の概念を広めたことで知られる。父アウグストも古典文献学者で、ビザンツ学を専門とし、大学の中世・近代ギリシャ学の正教授になった。母方の祖父が校長を務めるミュンヘンのマクシミリアンギムナジウムで教育を受け、ルター派のキリスト教徒として育った。十代の終わりにはバイエルンの山中を歩きながらプラトンの『ティマイオス』を読んだという。ピアノの名手でもあり、少年のころ、科学者になるかピアニストになるかを真剣に悩んだと伝えられる。

第一次世界大戦中は農場で勤労奉仕をした。敗戦後の1919年、反共派の義勇軍に加わってミュンヘンに入り、バイエルン・レーテ共和国の鎮圧に参加した。数十年後には、その日々を泥棒と警官の遊びのようなもので、まったく深刻ではなかったと振り返っている。ミュンヘン大学ではアルノルト・ゾンマーフェルトに学び、1920年から1923年まで物理学と数学を修めた。博士論文のテーマはゾンマーフェルトの示唆による流体の乱流で、1923年に博士号を取得した。口頭試問では実験物理学に関する質問に答えられず、平均的な評定にとどまったという。1922年6月、ゲッティンゲンで開かれたボーア祝祭に師に連れられて参加し、ニールス・ボーアと初めて出会った。これは彼に長く影響を残した。

1924年にゲッティンゲン大学でマックス・ボルンの助手となり、同年にはコペンハーゲンのボーア研究所に留学して、ボーアに師事した。1925年、花粉症の療養で植物の少ないヘルゴラント島に滞在していたときに、重要な着想を得た。同年にパスカル・ヨルダンの協力も得ながら行列力学を発表し、1927年には不確定性原理を導いた。この年、25歳でライプツィヒ大学の教授に就き、同僚のフリードリヒ・フントとともに、同大学を理論物理学の中心地に育てた。1932年、31歳でノーベル物理学賞を受賞した。受賞理由は「量子力学の創造」である。

ナチスの台頭後、恩師のボルンをはじめ多くの同僚がドイツを去った。ハイゼンベルクは、マックス・プランクの助言もあってドイツに残り、場の量子論や原子核の理論の研究を進めた。相対性理論やユダヤ人物理学者を擁護したため、ナチス党員の物理学者シュタルクやレーナルトから「白いユダヤ人」と呼ばれて攻撃された。第二次世界大戦中は政府に召集され、ドイツの原子爆弾開発の計画「ウランフェアライン」に関わった。1941年にはデンマークのボーアを訪ねたが、この会見で何が話されたのか、核兵器開発に彼がどんな意図を持っていたのかは、今も多くの関心を集めている。この会見を主題としたマイケル・フレインの戯曲『コペンハーゲン』は高い評価を受けた。ベルリンへのイギリス軍の空爆で家を失ったが、家族に犠牲はなかった。

終戦後は、ほかの開発者とともにイギリス情報部の手でイギリスのファーム・ホールに軟禁され、広島・長崎への原爆投下の知らせもそこで聞いた。戦後はカイザー・ヴィルヘルム物理学研究所の所長に任命され、研究所はまもなくマックス・プランク物理学研究所と改称された。研究所は1958年にミュンヘンへ移り、1960年から1970年まで物理・天体物理学研究所の所長を務めた。ドイツ研究評議会の会長やアレクサンダー・フォン・フンボルト財団の理事長などの職も務めたほか、西ドイツ初の研究用原子炉の計画にも関わった。1976年2月1日に世を去った。

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