伝記
グスタフ・ヴァルター・ハイネマンは、1899年7月23日にシュヴェルムで三人兄弟の長男として生まれたドイツの政治家、神学者で、1969年から1974年まで第3代連邦大統領を務めた。連邦大統領としては初めて社会民主党(SPD)の出身であった。父はエッセンでクルップ社の販売委託人をしており、父も祖父も急進的な自由主義者で、どの教会にも属していなかった。曾祖父は三月革命に参加している。子供のころから祖父の影響で革命歌を歌い、ドイツ人の臣民根性を1848年の革命精神、すなわち自由民主主義の発展で変えていかねばならないと心に決めていたという。第一次世界大戦中の1917年に軍へ志願したが、心臓の病気で3か月で除隊し、前線には出なかった。
1919年からミュンスター、マールブルク、ミュンヘン、ゲッティンゲン、ベルリンの各大学で法学を学び、1921年にマールブルク大学から政治学の博士号を授与された。1926年にエッセンで弁護士を開業し、同じ年にヒルダ・オルデマンと結婚して、一男三女をもうけた。ヒルダはマールブルク大学でルドルフ・カール・ブルトマンのもとでプロテスタント神学を学んだ人である。妻らを通じてスイスの神学者カール・バルトと知り合い、無宗教だったハイネマンはキリスト教に目覚めて、民族主義や反セム主義への拒絶の思いを強めた。1933年にナチスが政権を獲得すると、教会への介入に対する抵抗運動に加わった。親しい牧師が職を剥奪されると、ヒトラー首相に抗議の書簡を送り、法律知識を生かしてプロテスタントの抵抗組織「告白教会」の広報役となった。自宅の地下で抗議ビラを印刷し、戦争中はユダヤ人を匿う活動もしたが、細心の注意を払っていたためナチスに逮捕されることはなかった。
敗戦後の1945年、ドイツ福音主義教会の役員らとともに「シュトゥットガルト罪責告白」に署名した。キリスト教民主同盟(CDU)の結成に加わり、1946年にエッセン市長に選ばれ、1949年まで務めた。ノルトライン=ヴェストファーレン州の法務大臣を経て、アデナウアー政権では内務大臣となったが、早くからアデナウアーとは意見の相違があった。1952年にCDUを離党して全ドイツ人民党を設立し、軍備をせず北大西洋条約機構と東側陣営のどちらにも与しない中立を主張したが、翌年の選挙では得票率1.2%にとどまって議席を失った。1957年にSPDへ入党して連邦議会に復帰し、連邦軍の非核化運動を主導した。1966年にキージンガー内閣が成立すると、ヴィリー・ブラント党首の推薦で法務大臣となり、刑法の民主化や、ナチス戦犯の時効延長の決定に関わった。
1969年、決選投票が三度に及ぶ接戦の末、わずか6票差で連邦大統領に選ばれた。就任後は連邦軍の兵士や良心的兵役拒否の奉仕活動の若者を頻繁に訪ね、新年会には職業差別を受けるような職種の人々を進んで招いた。外国訪問ではナチスの被害を受けた国との和解を主題とし、ドイツ元首として初めてオランダを訪れた。1970年には訪日して大阪を訪れ、外務省の反対を押し切って広島の慰霊碑に献花した。1974年6月30日に健康と年齢を理由に再任を断って退任し、1976年7月7日、脳梗塞と腎不全のために死去した。彼の名を冠した学校、とりわけ障害者のための学校が、ドイツには数多く存在する。
同じ年に亡くなった人物
- アンネリーゼ・ミシェル (1976年没)
- ラルス・オンサーガー (1976年没)
- カール・シェーファー (1976年没)
- アリハーン・トラ (1976年没)
- ダビッド・エラザール (1976年没)
同じ地域に関係する人物
- ロベルト・シューマン (1856年没)
- ルドルフ・シュミット (1957年没)
- ニコラウス・フォン・ファルケンホルスト (1968年没)
- オットー・ゼーク (1921年没)
- エルナ・ベルガー (1990年没)