伝記
マン・レイは、本名をエマニュエル・ラドニツキーといい、1890年8月27日にペンシルベニア州フィラデルフィアで生まれたアメリカ合衆国の写真家、画家、彫刻家、映画監督である。両親はユダヤ系の移民で、父は仕立屋を営み、母は家族の服を自ら仕立てるのを好んだ。エマニュエルは長男で、弟と2人の妹がいた。7歳までをフィラデルフィアで過ごし、1897年に一家でニューヨークのブルックリンへ移った。のちにマネキンやアイロン、ミシン、針などの仕立ての道具が作品にたびたび現れ、父の仕事が芸術に長く影響を残したと指摘される。1904年に高校へ入って製図を学び、卒業後は建築を学ぶ奨学金の誘いを断って画家をめざした。出版社などで図案を描いて生計を立て、画廊にも通った。1912年、一家は姓をラドニツキーからレイに改め、本人も名をマンと改めて、やがてマン・レイを名乗るようになった。
1913年にニューヨーク近郊の芸術家村に移り、ベルギー生まれの詩人アドン・ラクロワと出会って翌年に結婚した。1915年に初の個展を開いたが、プロの写真家が撮った作品の写真が気に入らず、自らカメラを買って作品を記録するようになった。同じ年に生涯の友となるマルセル・デュシャンと出会い、1921年には二人で『ニューヨーク・ダダ』誌を創刊している。同年7月にパリへ渡り、デュシャンの紹介でパリのダダイストやシュルレアリストたちと交友を始めた。自分の名にちなんだレイヨグラフやソラリゼーションなどの撮影技法を編み出し、ソラリゼーションを表現技法として最初に利用したとされる。歌手でモデルのキキ・ド・モンパルナスと恋に落ち、職業的な写真家として成功してファッション雑誌にも写真が載るようになった。彫刻家ブランクーシと交友し、写真の技術を手ほどきしたという。映画『理性への回帰』(1923年)や『骰子城の秘密』(1929年)、オブジェ『破壊されるべきオブジェ』も手がけた。
1925年には第1回国際シュルレアリスム展に参加し、エルンスト、クレー、ミロ、ピカソらとともに出品した。シュルレアリスム的な作品を作る一方、当時の芸術家たちの肖像も写真に収めた。1929年にキキと別れ、『ヴォーグ』の人気モデルだったリー・ミラーを弟子兼恋人として、1932年まで交際した。1936年にアドンとの離婚が成立し、アドリエンヌ・フェドラン、通称アディとの交際が始まる。第二次世界大戦が始まると、ユダヤ人の出自を持つマン・レイはアディと別れ、1940年にアメリカへ移ってロサンゼルスで暮らした。ハリウッドスターなどを撮ったが、パリほどの名声は得られなかった。1946年、エルンストとドロテア・タニングの組と、マン・レイとジュリエット・ブラウナーの組が合同で結婚式を挙げた。
1951年にフランスへ戻り、モンパルナス界隈に住んで活動を再開した。1969年にはボックスアートの『ペシャージュ』を作っている。1976年11月18日にパリで死去し、墓はモンパルナス墓地にある。ジュリエットとともに眠る墓碑には、「平気だが、無関心ではない」と「再び共に」という英語の言葉が刻まれている。
同じ年に亡くなった人物
- ヴィクター・ヴァルコニ (1976年没)
- Bobby Pearce (1976年没)
- Jim Walsh (1976年没)
- バスビー・バークレー (1976年没)
- フアン・ホセ・トーレス・ゴンサーレス (1976年没)
同じ地域に関係する人物
- アデル・ド・シャンパーニュ (1206年没)
- フランシス・プーランク (1963年没)
- ポール・タファネル (1908年没)
- ホセ・フェリクス・ウリブル (1932年没)
- カロリーネ・フォン・ヘッセン=ローテンブルク (1741年没)