伝記
ポール・リロイ・バスティル・ロブスンは、1898年4月9日にニュージャージー州プリンストンで生まれたアメリカ合衆国の俳優、運動選手、バスバリトンの歌手であり、公民権活動家でもある。父はノースカロライナ州のプランテーションに奴隷として生まれ、そこから逃れ、のちにペンシルベニア州の学校を卒業して教会の牧師となった。母は奴隷制廃止論者のクエーカー教徒の家の出身であった。兄弟姉妹は4人で、ワシントンで医師を営んだ者や牧師になった者などがいる。ポールはサマーヴィル高校で歌、演技、運動を学び、1915年に首席で卒業した。
学業で奨学金を得てラトガース大学に入ったが、同校で3人目のアフリカ系アメリカ人の学生であり、在学中は唯一の黒人学生だった。成績優秀でファイ・ベータ・カッパに入会でき、クラスメートの推薦で卒業生総代も務めた。運動選手としてもフットボール、野球、バスケットボール、陸上競技など全部で15の代表チームで活躍し、フットボールでは1917年と1918年に全米1位のチームに名を連ねた。入部を志願したときは他の選手に殴られ、指の爪を剥がされるほどのいじめを受けたが、真価を発揮するために耐えたという。のちに合衆国政府が彼の国外旅行を禁じたとき、その名前は過去にさかのぼって両年の全米チームの名簿から削除された。
卒業後はハーレムに移ってコロンビア大学の法科大学院に入り、運動選手と演奏者として学費を稼いだ。アクロン・プロスやミルウォーキー・バジャーズでプロのフットボール選手として活躍し、1922年には演劇『タブー』に出演した。1921年8月にエスランダ・グードと結婚し、1927年には一子ポール・ロブスン2世が生まれている。1923年に法科大学院を卒業してニューヨークの法律事務所に雇われたが、白人の秘書が肌の色を理由に口述筆記を拒んだため、事務所を辞めた。
優れた低音の声によって名声を得て、黒人霊歌を演奏会場に持ちこんだ最初の歌手とされる。1924年にはユージン・オニール作の舞台で主役を演じて高く評価された。1928年にはロンドンのミュージカル『ショウボート』で彼のために書かれたジョーの役を演じた。1930年にイングランドでシェイクスピアの『オセロ』の主役を演じたが、当時アメリカにはこの役に彼を起用する会社が一つもなかった。1943年にニューヨークで再び演じ、1945年まで合衆国を巡演した。このブロードウェイ上演は、2006年の時点でシェイクスピア劇のロングラン記録とされている。世界の民謡に関心を持ち、20の言語に精通するようになったという。1925年から1942年のあいだには、11の映画作品に出演した。
政治的には、アメリカ黒人の置かれた状況、とくに南部の人種分離を厳しく批判し、リンチに反対して1946年にアメリカ反リンチ十字軍を創設した。1948年の大統領選挙では、進歩党のヘンリー・ウォーレスのために活動した。一方で、ソ連とスターリンの政策を率直に擁護したため、米国と英国で議論の多い人物となった。1949年にニューヨーク州ピークスキルで彼が企画したコンサートは、反共産主義者の群衆に襲われて延期され、再開された公演の後も暴力が起き、140名が負傷した。ロブスンは1976年1月23日に世を去った。
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