伝記
アルドゥス・ピウス・マヌティウスは、イタリア語名でアルド・マヌーツィオとも呼ばれ、ルネサンス期のヴェネツィアで活躍した出版人であり、商業印刷の父と言われる。1449年から1452年の間に、ローマ近郊のバッシアーノで裕福な家に生まれた。若いころにローマへ送られて人文主義者を目指し、1470年代初めにはラテン語を学び、1475年から1478年にはフェッラーラでバッティスタ・グァリーノにギリシア語を学んだ。初期の生涯はよく分かっていない。1480年にカルピの市民権を得て土地を持ち、1482年には旧友の人文主義者ジョヴァンニ・ピーコ・デッラ・ミランドラとミランドラを訪れ、2年ほどギリシア文学を学んだという。ピーコの推薦で、カルピの領主であるピーコの甥アルベルトとレオネッロ・ピオの家庭教師となり、とくにアルベルトとは親しかった。1480年代の末には、教え子とその母カテリーナ・ピーコに宛てた2つの作品を、ヴェネツィアで出版している。
ピーコとピオ両家は印刷所の開業費用を出し、カルピの土地も与えた。マヌティウスはヴェネツィアこそ仕事にふさわしい土地だと考え、1490年に移り住んだ。そこで同じく出版に携わるアンドレア・トレザーノと出会い、終生の仕事仲間となった。最初の共同の仕事が、1493年3月9日に出た自著のラテン語文法書である。アルド印刷所は1494年に設立され、1495年3月にコンスタンティノス・ラスカリスのギリシア語文法書で最初の出版を行った。持ち分はトレザーノとピエル・フランチェスコ・バルバリーゴが半分ずつで、トレザーノの分の五分の一がマヌティウスに与えられたが、資料の説明は分かれている。最初の大きな成果は、アリストテレスの5巻本で、1495年に第1巻が出て、残りは1497年から1498年に出された。1498年にはアリストパネスの喜劇9編を、1501年にはピエトロ・ベンボが校訂したペトラルカの詩集を出した。
ギリシア語の原典は翻訳で損なわれていない純粋なものだと考え、それまで出版が少なかったギリシア語の書を、標準的な活字を用意して出した。当時の人文主義者の筆跡に似せたギリシア語とラテン語の活字を作らせ、これがイタリック体の最初の先駆けとされる。20年ほどで約120点の古典を校訂して出版し、アンティカ体も開発したという。ページの順序を示す番号を紙面の端につけ、八折り判を採って本を小さくしたことで、「持ち歩ける」小型本の歴史が始まり、これは書物史の転換点となった。コンマやセミコロンなど句読点の使い方の標準化にも寄与した。
第二次イタリア戦争で印刷所は一時止まったが、その間にエラスムスが、自身の翻訳した『ヘカベ』と『アウリスのイピゲネイア』の出版を頼んできた。エラスムスは印刷所の正確で入念な出版という評判を頼ったとされ、ギリシア語のプラトンや多言語聖書の計画も手紙で尋ねている。1507年12月に、『アウリスのイピゲネイア』が八折り判80ページで刊行された。一方で、彼の技術革新によって海賊版が横行し、それに対する戦いが始まった。この戦いは21世紀まで続いている。マヌティウスは1515年2月6日に没し、その事業は子や孫の3世代にわたって印刷文化を牽引した。孫と区別するため「大アルドゥス」とも呼ばれる。DTPの概念を生んだ20世紀のソフトウェア企業アルダスの名は、彼の名の英語読みに由来する。
同じ年に亡くなった人物
- ゴンサロ・フェルナンデス・デ・コルドバ (1515年没)
- アブラオン・ザクート (1515年)
- ピエトロ・ロンバルド (1515年没)
- アフォンソ・デ・アルブケルケ (1515年没)
- バルバラ・ザーポリャ (1515年没)
同じ地域に関係する人物
- フランチェスコ・フォスカリ (1457年没)
- フランチェスコ・バッサーノ・イル・ジョーヴァネ (1542年没)
- パリス・ボルドーネ (1571年没)
- アンドレーア・ガブリエーリ (1586年没)
- ダリオ・カステッロ (1630年没)