HISTORICAL PERSON · 1516年没

フェルナンド2世 (アラゴン王)

アラゴン王で、カスティーリャ王としてはフェルナンド5世。妻のイサベル1世とともにカトリック両王と呼ばれ、自身もカトリック王と称された。

生涯
1516年没
死亡地
スペイン王国(カセレス県 / Casa de Santa Maria)
出生地
スペイン王国(Palacio de los Sada)
出典
世界地図
スペイン王国(カセレス県)

伝記

フェルナンド2世は、1452年3月10日、アラゴン国王フアン2世と、2番目の妃でカスティーリャ貴族の娘フアナ・エンリケスの子として、アラゴン領のソスで生まれた。母は前年10月にはナバラにいたが、望んで国境近くのアラゴン領の館へ移り、そこで産んだという。父は54歳、母は27歳で、母にとっては第1子だった。異母兄にビアナ公カルロス、異母姉にカスティーリャ王エンリケ4世の妃ブランカとナバラ女王レオノールがいる。6歳のとき、父からモンブランク公とリバゴルサ伯の称号を与えられた。1461年に9歳で異母兄カルロスが死ぬとアラゴンの王太子となり、1468年には父からシチリア王位を譲られた。カタルーニャ内戦(1462年-1472年)では父のもとで戦い、統治の実務に触れたという。

1469年10月19日、カスティーリャ王女イサベルと結婚した。イサベルはトラスタマラ家の同族で又従姉にあたる。1474年にエンリケ4世が死ぬとイサベルが女王に即位し、フェルナンドはカスティーリャ共治王フェルナンド5世となった。しかしエンリケの娘フアナを推す派と内戦になり、フアナはポルトガル王アフォンソ5世の支持を受けた。フェルナンドは戦争の指揮を執り、1476年のトロの戦いは決着がつかなかったが、政治的な手腕で戦略的な勝利に変えたとされる。戦争はフアナの敗北で終わり、1479年、フェルナンドは父の死でアラゴン王位を継いだ。カスティーリャとアラゴンは内政では別々のまま、対外的には一体となり、のちのスペイン王国につながった。1492年1月にはグラナダ王国を滅ぼし、約800年に及ぶレコンキスタを終わらせた。1496年には教皇アレクサンデル6世が両者の偉業をたたえ、「カトリック両王」の称号を授けた。

グラナダ戦の後はバルセロナへ王宮を移してフランスと戦い、1493年に和平が成った。一時的な和平だと見て、婚姻政策を進め、長男フアンを神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世の娘マルグリットと、次女フアナをマクシミリアンの息子フィリップと、四女カタリーナをイングランド王太子アーサーと結婚させ、フランス包囲網をつくった。1504年の条約でフランスはナポリの王位を放棄し、フェルナンドがナポリ王(フェルディナンド3世)を兼ねた。同年11月にイサベルが死ぬとカスティーリャ王位を失い、王位は次女フアナが継いだ。フェルナンドはイサベルの遺言に基づいて摂政となり、フィリップの急死後、精神が不安定になったフアナに代わって再び政務を執った。1505年には、異母姉レオノールの孫ジェルメーヌ・ド・フォワと再婚したが、翌年生まれた男子は夭折した。1511年には教皇ユリウス2世の神聖同盟に加わり、1512年にはナバラ王国を占拠してカスティーリャへ併合した。

1516年1月23日に死去し、遺体は1521年に孫のカルロス1世の命でグラナダの王室礼拝堂に移され、イサベルとともに眠る。後継者にはフアナの長男カルロスが指名され、のちにスペイン国王カルロス1世、神聖ローマ皇帝カール5世となった。フランドルで育ってスペイン語を解さない兄に対し、スペインで生まれ、祖父が同じ名を与えて手元で育てた弟フェルナンド王子を新王にと望む声がアラゴンにあり、フェルナンド2世自身にもその気持ちがあったとされる。しかし弟を立てればハプスブルク家との戦争は避けられなかった。弟フェルナンドは、のちに神聖ローマ皇帝フェルディナント1世となった。

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