伝記
ルカ・パチョーリは、1445年ごろ(1447年ごろとも)に、トスカーナのサン・セポルクロで生まれたイタリアの数学者で、フランシスコ会の修道士でもあった。簿記の教科書となる本を書いたことから「近代会計学の父」と呼ばれる。ルネサンス期の経済発展のなかで、若いころから商業や会計と関わる数学を学び、少年時代には画家のピエロ・デラ・フランチェスカから数学の指導を受けたとされる。
1464年、19歳のころにヴェネツィアへ移り、豪商アントニオ・デ・ロンピアージの家に仕えた。3人の息子の家庭教師を務め、彼らのために算術書を書いて生計を立てた。この書は失われたとされる。その後、ローマでレオン・バッティスタ・アルベルティと親交を持ち、数学と神学を学んだ。1470年に数学の論稿を発表し、1472年にフランシスコ会の修道士となり、1475年にはペルージャ大学の数学教師となった。以降、ザダル、ナポリ、ローマなどで講義と執筆を続けた。1482年には博士の学位を取り、1489年にはサン・セポルクロへ帰郷した。1487年にはペルージャでユークリッドの『原論』のイタリア語訳に取りかかったとされ、これは1509年に出版されたとされるが、一冊も伝わっていない。
1494年に『スムマ』と呼ばれる数学書を著した。正式な題は「算術・幾何・比及び比例全書」で、ラテン語ではなくイタリア語で書かれ、第1部は主に算術と代数、第2部は幾何を論じている。第1部第9編の簿記論では、当時のヴェネツィア商人が用いていた複式簿記が初めて学術的に説明され、財産目録の作成から日記帳、仕訳帳、元帳、決算までが詳しく述べられた。パチョーリ自身が複式簿記の祖でないことは、この書の中でも述べられている。既存の知識をまとめたにすぎないという批判もあるが、簿記論は各国語に翻訳されて、複式簿記の知識がヨーロッパ中に広まった。賭博を例にした問題もあり、確率を数学的に扱った最初の文献ともいわれる。
1490年代後半にはミラノのスフォルツァ家をパトロンとし、1496年ごろ、40代前半のレオナルド・ダ・ヴィンチに数学と複式簿記を教えた。40代とは思えないレオナルドの知に貪欲な姿勢に感銘を受け、ともに幾何学的立体図形の研究を行ったという。マントヴァ滞在中の1497年から1498年に『神聖比例論』を著し、1509年に出版された。正多面体の挿絵はレオナルドの原図によるとされる。第3部については、ヴァザーリがピエロの著作の剽窃としたが、パチョーリが師を高く評価していることから、共作とみる見方もある。
1499年にスフォルツァ家の失脚でミラノの学会が解散すると、パチョーリとレオナルドはマントヴァ、ヴェネツィアを経てフィレンツェへ移り、そこで協力を続けた。教皇アレクサンデル6世からロマーニャ地方のフランシスコ会の管区長に任じられ、1506年にはサンタ・クローチェ修道院に入ったとされる。1500年(1507年ともいわれる)にはピサ大学で幾何学を教え、その後はボローニャ、ペルージャ、ローマの各大学で教えた。1517年にサン・セポルクロで世を去った。1994年には『スムマ』の出版500周年を記念して、生地の広場に大理石像が建てられ、日本の大原学園も建立に携わった。
同じ年に亡くなった人物
- フランシスコ・エルナンデス・デ・コルドバ (ユカタン半島の発見者) (1517年没)
- ボグダン3世 (モルダヴィア公) (1517年没)
- ハインリヒ・イザーク (1517年没)
- バディー・ウッザマーン (1517年没)
- マリア・デ・アラゴン・イ・カスティーリャ (1517年没)
同じ地域に関係する人物
- ルキウス・カエキリウス・メテッルス・デンテル (紀元前283年没)
- クリストフォロ・ランディーノ (1498年没)
- ロベルト・アサジオリ (1974年没)
- バルトロメオ・デッラ・ガッタ (1502年没)
- ウィクトル2世 (ローマ教皇) (1057年没)