伝記
アレクサンドル・ミハイロヴィチ・ヴァシレフスキーは、1895年9月30日にロシア帝国のキネシマ郡、現在のヴィチュガ市域にあたる村で、8人の子の4番目として生まれたソビエト連邦の軍人である。父は近くの教会の司祭であり、本人の回想では一家は非常に貧しかった。父は働きづめで、子供たちは畑仕事をした。1897年に一家はノヴォポクロフスコエに移り、父が新しい教会の司祭となった。1909年にはコストロマの神学校に入ったが、神学生の運動に加わって一時退学させられ、数か月後に戻っている。神学校を終えて教師として働いたのち、農学者になることを考えていたが、第一次世界大戦が始まると愛国心に駆られて軍人を志した。1915年2月にアレクセーエフ軍事学校に入り、戦時の速成教育のため4か月で卒業した。
卒業後は准尉として連隊に入り、前線に出て、革命までに大尉、大隊長に昇進した。1919年に予備連隊の副小隊長として赤軍に入り、まもなく中隊長、大隊長となって、白衛ポーランド軍と戦った。その後は第48狙撃師団長を務めている。1931年5月に労農赤軍戦闘訓練局に移り、縦深戦闘戦術の立案に参加し、このころゲオルギー・ジューコフと知り合った。1936年秋に創設されたばかりの参謀本部アカデミーに入り、講座長を務めたのち、1937年10月に参謀本部勤務に戻った。そこではボリス・シャポシニコフの庇護を得て、スターリンにも紹介された。1940年5月に参謀本部作戦局副局長となり、ドイツへ派遣されたソビエト政府代表団に加わった。
第二次世界大戦が始まると、1941年秋に参謀次長兼作戦局長となり、モスクワの防衛を準備して、12月1日にはドイツ軍に対する逆襲の計画を立てた。1942年初め、モスクワの防衛に成功して気をよくしたスターリンは全戦線での攻勢を決めた。シャポシニコフ参謀総長とヴァシレフスキーは反対したが止められず、攻勢は失敗した。同年春にシャポシニコフが体調を崩すと、ヴァシレフスキーが参謀総長代行となり、6月24日に正式に参謀総長となった。スターリングラードの攻防では、同方面の3個戦線の行動を調整して勝利に導いた。1943年2月16日にソ連邦元帥に昇進し、同年夏にはクルスクでのドイツ軍の攻勢を見抜いて、ジューコフとともに防衛計画を立てた。バグラチオン作戦では、第1沿バルト戦線と第3白ロシア戦線の行動を調整し、その功績でソ連邦英雄の称号を授けられた。1945年2月には戦死したチェルニャホフスキーの後任として第3白ロシア戦線の司令官となり、東プロイセンのケーニヒスベルクを奪取した。
その後は対日参戦に備え、関東軍を撃破する計画を立て、7月に極東ソ連軍の総司令官に任じられた。8月8日にソ連が対日宣戦布告をすると、翌9日にソ満国境を越えて関東軍を破った。1946年3月に再び参謀総長となり、1949年3月に軍事人民委員、1950年から1953年まで陸軍大臣を務めた。ソ連邦英雄に2度なり、勝利勲章を2個、レーニン勲章を8個受けた。息子のユーリーは退役航空中将となった。ヴァシレフスキーは1977年12月5日に死去し、遺骸は赤の広場のクレムリンの壁墓所に埋葬された。
同じ年に亡くなった人物
- ルイージ・トラグリア (1977年没)
- スティーヴン・ボイド (1977年没)
- 前田精 (1977年没)
- ジョルジョ・ラ・ピーラ (1977年没)
- アリソン・ヘイズ (1977年没)
同じ地域に関係する人物
- エヴドキヤ・ロプーヒナ (1731年没)
- アブラム・アリハノフ (1970年没)
- ヨシフ・スターリン (1953年没)
- ピョートル・コシェヴォーイ (1976年没)
- アレクサンドル・アブレシモフ (1783年没)