HISTORICAL PERSON · 1977年没

ビング・クロスビー

米国の歌手・俳優。世界初のマルチメディア・スターとも言われ、20世紀を代表する人気と影響力を誇った音楽家。

生涯
1977年没
死亡地
スペイン王国(マドリード州 / アルコベンダス)
出生地
アメリカ合衆国(タコマ)
出典
世界地図
スペイン王国(マドリード州)

伝記

ビング・クロスビーは、1903年5月3日にアメリカ合衆国ワシントン州タコマで生まれ、1977年10月14日に没した歌手・俳優である。世界初のマルチメディア・スターとも言われ、20世紀を代表する人気と影響力を持った音楽家であった。

簿記係のハリー・ロウ・クロスビーと、キャサリン・ヘレン(旧姓ハリガン)の子として生まれた。父はイングランド系、母はアイルランド系アメリカ人のルーツを持ち、父方の先祖にはメイフラワー号で渡ったプリマス植民地の指導者ウィリアム・ブリュスターがいる。高校時代から演劇や音楽に関心を持ち、スポーケンのゴンザガ大学法学部に進んだが、友人のアル・リンカーらとジャズ・バンドを結成してほどなく大学を中退し、プロの音楽家となった。後年、私財を投じてゴンザガ大学にビング・クロスビー・センターを建設しており、これは現在も残っている。

1926年に人気楽団のポール・ホワイトマン楽団に歌手として入り、翌1927年には楽団内で結成された男性3人組のコーラスグループ「リズム・ボーイズ」の一員となった。グループはのちに楽団から独立して人気を得る。1931年に独唱した「アイ・サレンダー・ディア」などがヒットしてソロ歌手として独立し、この年、CBSラジオで自らの「ビング・クロスビー・ショー」を持って全米的な人気を獲得した。ラジオを媒体に人気を得た歌手の初期の代表例である。1930年代には、ラジオとともに普及し始めたマイクロフォンの増幅機能を活かし、声を張り上げず滑らかに発声する「クルーナー・スタイル」を最初に確立した歌手としても知られる。この歌唱法は、肉声で大声を出す従来の歌い方を大きく革新し、歌にスマートで洗練されたイメージを与えて、その後のポピュラー・ソングにも大きな影響を及ぼした。

歌手としての地位を固めたのち映画にも進出し、生涯で57本の映画に出演した。20年以上続いた「珍道中シリーズ」をはじめ、観客動員力のある主演スターとして長年ハリウッドの頂点に立った。『我が道を往く』ではアカデミー主演男優賞を受け、『喝采』で同賞にノミネートされるなど、演技も高く評価された。1940年以降、13曲の全米No.1ヒットを持ち、生涯のレコード売上は4億枚を超えるという。なかでも1942年発売の「ホワイト・クリスマス」はビルボードで14週間1位を記録し、リメイク版を含めて世界で4500万枚を超える大ヒットとなり、「クリスマスソングの王様」と呼ばれた。戦後も大作ミュージカル映画に出演し、1950年代にはテレビショーやトークショーでも人気を得た。

第二次世界大戦中にドイツで開発されたテープレコーダーの技術をアメリカに移すことを目論み、ラジオ番組を放送用に録音するため、アンペックス社の設立にも携わった。熱心な競馬愛好家でもあり、1937年にはデルマー競馬場の創設に寄与した。ゴルフを愛し、自らの名を冠したプロアマの大会も創設している。私生活では、1930年に女優のディキシー・リーと結婚して4人の子をもうけたが、リーは1952年に亡くなり、1957年に女優のキャスリン・グラントと再婚した。1977年10月14日、スペインのマドリード郊外のゴルフ場でコースを回った直後に心臓麻痺で倒れ、近くの病院で息を引き取った。

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