伝記
モディボ・ケイタは、1915年6月4日に生まれ、1977年5月16日に没したマリ共和国の政治家である。イスラム教徒で、パン・アフリカ主義を唱えてマリ連邦の首相となり、連邦の崩壊後はマリ共和国の初代大統領となった。
当時フランス領スーダンの首都であったバマコの、バマコ・クラーと呼ばれる地区に生まれた。家はイスラム教徒で、中世のマリ帝国を建てたケイタ王朝の直系だと主張していた。バマコで学び、ダカールのウィリアム・ポンティ師範学校で首席だったとされる。1936年から教師として、バマコ、シカソ、トンブクトゥで勤務し、1939年9月には同じく教師のマリアム・トラヴェレと結婚した。のちに三人の妻を持った。
政治への関わりは1930年代後半から始まり、1937年には芸術・演劇集団の世話役を務め、ウエジン・クリバリとともにフランス領西アフリカ教員組合の結成を助けた。1940年代にはフランス共産党系の研究グループにも加わった。1943年には植民地支配に批判的な雑誌を創刊し、これがもとで、1946年にパリの刑務所に3週間投獄されたとされる。1945年には、ママドゥ・コナテとともにスーダン連合の前身にあたる政党を結成している。1946年にフランス領西アフリカに選挙権が認められると、コートジボワールのフェリックス・ウフェ=ボワニを中心にアフリカ民主連合が結成され、ケイタはその支部としてスーダン連合を率いる党首となった。1956年にはバマコ市長に選ばれ、フランス国民議会の議員にもなり、二つの内閣で閣僚を務めた。
1950年代後半に各植民地の独立が現実味を帯びると、ケイタはパン・アフリカ主義に基づき、西アフリカ各植民地の連合を提唱した。分離独立を唱えるウフェ=ボワニとは対立し、セネガルのサンゴールに近づいた。1959年1月、ダカールで4つの植民地の代表が協議したが、スーダンとセネガルが統一国家を主張したのに対し、オートボルタとダオメーは独立国家の連合を主張して決裂した。1960年6月、スーダンとセネガルはマリ帝国にちなんでマリ連邦を作り、サンゴールが国会議長、ケイタが首相に就いた。しかし、親西側のサンゴールと親東側のケイタの路線対立がすぐに表面化し、8月20日に連邦は解体する。8月22日にスーダンはマリ共和国として単独で独立し、ケイタが初代大統領に就任した。
大統領としてはスーダン連合を唯一の政党とし、アフリカ社会主義を唱えて、伝統的な農村共同体を基盤にした近代社会を築こうとした。ソビエト連邦や中華人民共和国との関係を強めたが、セネガルとの断交と貿易禁止で輸出ルートが途絶え、行政の未成熟や無理な国有化による生産の停滞も重なって、経済は混乱し、計画は失敗した。一党独裁への不満も国内で募っていった。1968年11月19日、国軍のムーサ・トラオレ大尉が起こしたクーデターでケイタ政権は崩壊する。ケイタは捕らえられ、サハラ砂漠のキダルの刑務所に送られて、10年近い獄中生活の末、1977年5月16日に獄中で死亡した。
同じ年に亡くなった人物
- フアン・ベラスコ・アルバラード (1977年没)
- Hans Pulver (1977年没)
- クリシャン・チャンダル (1977年没)
- Moufdi Zakaria (1977年没)
- Odd Frantzen (1977年没)
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