伝記
チャールズ・スペンサー・チャップリンは、1889年4月16日、父チャールズと母ハンナの子として生まれた。自伝ではロンドン南部のウォルワースで生まれたとしているが、公式の出生記録は存在しない。両親はともにミュージック・ホールの芸人で、父は人気歌手、母は芽の出ない女優だった。母ハンナは結婚前に、非嫡出子の兄シドニーを産んでいた。1891年までに両親は別居し、父は養育費さえ払わなかった。母は洋裁や看護で小銭を稼ぐだけで、貧困と母の入院により、7歳のチャップリンは兄とともに施設に収容された。1898年7月には三人ともランベス救貧院に入れられ、親子兄弟もばらばらに収容されたが、8月12日に三人で申し合わせて退院手続きをとり、ケニントン・パークで一日を過ごした。兄が手に入れた9ペンスで昼食をとり、新聞紙を丸めたボールでキャッチボールをして、夕方に救貧院へ再収容された。
同年9月、母は栄養失調と梅毒を原因とする精神病を発症して収容され、兄弟は重度のアルコール依存症だった父に引き取られた。父は1901年に肝硬変のため38歳で亡くなっている。チャップリンの初舞台は5歳のときで、オールダーショットの劇場で母が喉をつぶして野次を浴びたため、急遽代役として舞台に立ち、歌って大喝采を浴びたという。1898年末には木靴ダンスの一座に加わり、1899年から1900年にかけて各地のミュージック・ホールを巡業した。13歳ごろに学業を断念し、食品雑貨店の使いの小僧や診療所の受付、印刷所の工員などで生活をつないだ。1903年に母が再び入院し、1905年3月の再入院のあとは、病状が完全に回復することはなかった。
1903年にウエスト・エンドの俳優周旋所に登録し、舞台『ロンドン子ジムのロマンス』のサム役を得た。以後は『シャーロック・ホームズ』のビリー役などで2年半以上を過ごした。1908年2月、兄の頼みで受けたテスト出演でアドリブのギャグが認められ、フレッド・カーノー劇団と契約した。脇役から始め、1909年に主役級となり、酔っ払いが当たり役の『啞鳥』で知られた。1910年10月からのアメリカ巡業は21か月続き、批評家に「これまでに見た中で最高のパントマイム芸人の一人」と評された。
1913年、2度目のアメリカ巡業中にキーストン社と契約し、12月にロサンゼルスに着いた。1914年2月2日公開の『成功争ひ』で映画デビューし、2本目の作品に向けて、だぶだぶのズボン、大きなドタ靴、ステッキに山高帽という扮装を考え出した。これが小さな放浪者のキャラクターである。やがて自分で監督も務め、4月20日公開の『恋の二十分』が監督デビュー作となった。その後、エッサネイ社などと移籍を重ね、1919年にユナイテッド・アーティスツを共同設立した。『キッド』『黄金狂時代』『街の灯』『モダン・タイムス』『独裁者』などを発表した。1940年代にはスキャンダルと共産主義的傾向の疑いで非難され、1952年にアメリカへの再入国許可を取り消されて、以後は亡くなるまでスイスに定住した。1972年にアカデミー賞の名誉賞を受け、1977年12月25日に没した。
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