伝記
ウラジーミル・ウラジーミロヴィチ・ナボコフは、1899年4月22日(ユリウス暦4月10日)、ロシア帝国のサンクトペテルブルクで、貴族の家の長男として生まれた作家・詩人である。50人の使用人に囲まれる非常に裕福な環境で育った。父のウラジーミル・ドミトリエヴィチは、ロシア時代には自由主義派の有力な政治家だった。ロシア革命後の1919年に西欧へ亡命し、同年、ケンブリッジ大学のトリニティ・カレッジに入学して、動物学やフランス語を学び、サッカーチームのゴールキーパーも務めた。1922年に大学を卒業し、ロシア移民が多く住むベルリンに落ち着いていた家族と合流したが、同年、父は亡命先の政治集会で暗殺された。
文筆や教師などの仕事を始め、1925年、同じくベルリンに亡命していたユダヤ系ロシア人のヴェラと結婚した。当時、ロシア貴族がユダヤ人と結婚するのは珍しかった。ヴェラは結婚後、夫の秘書役に徹し、ナボコフは全ての作品を彼女に献呈している。1934年には息子ドミトリーが生まれた。1歳下の弟セルゲイは、同性愛と反ナチス的な言動を理由に強制収容所に送られ、ハンブルク近くの収容所で病死した。ナボコフは青年時代から反ユダヤ主義を憎み、生涯を通じてユダヤ系の友人や知己が多かった。晩年には、ロシア系ユダヤ人の複数の協会に寄付もしていた。ロシア時代から詩を書き始め、ベルリンとパリでは「シーリン」の筆名でロシア語の小説を発表して、亡命文学界で高く評価された。パリ時代の終わりごろから、英語で小説を書き始めた。
パリでの生活を経て、1940年に渡米し、1945年にアメリカに帰化した。コーネル大学などでロシア文学とヨーロッパ文学を講じるかたわら、英語で創作を続けた。『プニン』は1953年11月28日号から『ザ・ニューヨーカー』誌に断続的に掲載され、米国に亡命したロシア人教授の悲喜劇を描いたこの作品が、アメリカでナボコフの名を有名にした。1955年に『ロリータ』を出版して国際的に著名な作家となり、1959年にスイスのモントルーへ移って、生涯、執筆に専念した。1961年からはレマン湖畔の老舗ホテルに夫婦で暮らし、蝶の採集やテニスにも多くの時間を割いた。1962年にはスタンリー・キューブリックによる『ロリータ』の映画化で自ら脚色し、アカデミー脚色賞にノミネートされた。
鱗翅目の研究者でもあり、ハーバード大学とコーネル大学の研究所でシジミチョウの分類学的研究を行った。集めた約4000の蝶の標本は、大学や博物館に寄贈されている。趣味でチェス・プロブレムも作り、『ディフェンス』などチェスに関わる作品を残した。翻訳者としても、1923年に『不思議の国のアリス』をロシア語に訳している。1964年には、約15年をかけたプーシキンの『エヴゲーニイ・オネーギン』の注釈付き英訳を出版した。エドマンド・ウィルソンとは親しかったが、この英訳を批判されて長年の友情は崩れた。自伝に『記憶よ、語れ』があり、他の代表作に『賜物』『セバスチャン・ナイトの真実の生涯』『青白い炎』がある。文学的な仕掛けと遊び心に富んだきわめて技巧的な作家と評価され、1977年7月2日に亡くなった。
同じ年に亡くなった人物
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- ルース・エルダー (1977年没)
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- セルジュ・リファール (1986年没)
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