伝記
ジュリアス・ヘンリー・マルクスは、芸名のグルーチョ・マルクスで知られるアメリカの俳優、コメディアン、作家である。1890年10月2日にニューヨークのマンハッタンで生まれ、1977年8月19日に没した。マルクス兄弟の三男として、舞台から映画へと活動を広げ、のちのコメディに大きな影響を与えた。ひとことの切り返しの名手として、アメリカを代表する喜劇人のひとりに数えられる。
生まれたのはユダヤ系移民の家庭で、母ミニーはドイツ北部のドルヌムから、父サムはフランスのアルザスからの移民であった。母の弟のアル・シーンは、ヴォードヴィルの人気芸人として名を知られた。母は芸能界の経歴こそなかったが、息子たちを叔父のように舞台に立たせようと強い野心を抱いていた。次男チコにピアノを習わせるうちに、ジュリアスの澄んだソプラノの声に気づいたという。少年の頃は医者になることを望んでいたが、家が貧しかったため12歳で学校を中退した。このころには読書家になっていた。事務職など少年向けの仕事を転々としたあと、1905年7月16日にミシガン州グランドラピッズで、少年歌手として舞台に立った。1909年には母が、兄弟を「ザ・フォー・ナイチンゲールズ」と名づけた歌手グループにまとめ、アメリカ各地のヴォードヴィルを巡業した。
テキサス州の公演で、落胆した兄弟が舞台上で冗談を言い合うと、観客は歌よりもそのほうを喜んだ。そこで喜劇へと舵を切り、音楽中心のスタイルから転換していった。彼は当初ドイツ系の人物を演じていたが、第一次世界大戦で反ドイツ感情が高まると、そのキャラクターを捨てた。そうして生まれたのが、早口でまくしたてるトレードマークの話しぶりである。戦争で弟のガンモが徴兵され、代わりに末っ子のゼッポが加わって、四人体制のマルクス兄弟が成立した。兄弟はブロードウェイで三つのヒット作を演じたのち、1929年にパラマウントに招かれ、映画製作に乗り出した。ゼッポが俳優をやめたあと、グルーチョは兄のチコ、ハーポとの三人で、1935年からMGMで五作品を制作した。大ヒットした1935年公開の『オペラは踊る』では、兄弟の過剰なアドリブに業を煮やした監督のサム・ウッドが「粘土細工に演技はできない」と嫌味を言い、グルーチョが「木にも監督はできない」と返したという逸話が残る。兄弟の映画制作は1949年まで続いた。
兄弟としての活動を終えたのちは、トークの才能を生かしてラジオやテレビの司会者として活躍した。とくに1947年にラジオ番組として始まり、1950年からテレビ番組として11年続いたクイズ番組『ユー・ベット・ユア・ライフ』では番組の顔として人気を博した。自伝『グルーチョと私』(1959年)など多くの著作も残している。トレードマークは眼鏡、口髭、葉巻で、墨で太く描いた口髭と眉毛は、手間のかかる付けひげの代わりとして用いるようになったものである。上半身を前に大きく倒した歩き方も特徴で、ナンセンスなジョークを間断なく語り続ける芸風は、のちのコメディアンに強い影響を与えた。1974年の第46回アカデミー賞では、マルクス兄弟の功績をたたえて、存命のグルーチョにアカデミー名誉賞が授与された。1970年代に入ると体調を崩しがちになり、1977年8月19日、ロサンゼルスで肺炎のため死去した。
同じ年に亡くなった人物
- オスカー・モルゲンシュテルン (1977年没)
- Neco (1977年没)
- アレクサンドル・ロジムツェフ (1977年没)
- ジャック・ターナー (映画監督) (1977年没)
- オットー・アンデション (1977年没)
同じ地域に関係する人物
- テイ・ガーネット (1977年没)
- セゲー・ガーボル (1985年没)
- ランドルフ・スコット (1987年没)
- ジョー・ハント (1945年没)
- ヘンリー・キング (1982年没)