伝記
ルクレツィア・ボルジアは、ルネサンス期の貴族女性で、フェラーラ公アルフォンソ1世・デステの妃となった人物である。1480年4月18日、ローマ近郊のスビアーコに生まれた。父はのちのローマ教皇アレクサンデル6世となるロドリーゴ・ボルジア、母は数多いその愛人の一人ヴァノッツァ・デイ・カタネイである。同母兄にヴァレンティーノ公チェーザレ・ボルジアとガンディア公ホアン、同母弟にホフレがいる。ボルジア家は、マキャヴェッリが『君主論』で冷酷な統治者の好例として言及した一族で、教皇である父も、腐敗と不品行に堕ちたルネサンス期教皇の典型だといわれる。ルクレツィアの生涯は「ファム・ファタール」として多くの美術や小説、映画に取り上げられてきたが、生涯そのものはほとんど知られておらず、父や兄弟の政治的陰謀に関わっていたかどうかも分かっていない。ただ、彼らが政治的野心のために、彼女を有力者と結婚させようとしたことは間違いない。
膝まで届く豊かな金髪と、角度によって色が変わるハシバミ色の瞳を持ち、その優雅さから「天女」と呼ばれて、当時のイタリアで高く賞賛された。1491年に最初の婚約がなされたが二カ月足らずで破棄され、1492年に父が教皇に選ばれると、ミラノを支配していたスフォルツァ家の一員で、ペーザロの領主でカティニョーラ伯のジョヴァンニと婚約し、1493年6月12日にローマで結婚した。だが、まもなくボルジア家はスフォルツァ家と距離を置き始め、教皇宮廷内でジョヴァンニの立場は微妙になった。アレクサンデル6世は離婚を承諾させようとしたが、ジョヴァンニは拒み、ルクレツィアに父や兄との近親相姦の疑いがあるとして訴えを起こした。教皇は、結婚は不完全で無効だと主張し、最終的に圧力に屈したジョヴァンニは、自身が性的不能者であり結婚が無効だったと認める宣誓書に署名して、婚姻は破棄された。
この騒動の間、教皇の侍従ペドロ・カルデロンとの関係が取り沙汰され、1497年6月にルクレツィアはサン・シスト修道院に身を隠して、決着する12月までこもった。1498年2月にはカルデロンの遺体がテヴェレ川で発見されている。同じ頃、ボルジア家の邸宅で一人の男児が生まれ、ジョヴァンニと名づけられたが、その父母については、1501年の二通の教皇勅書の内容が食い違っており、ルクレツィアの子だとする説が立証されたことはない。
婚姻無効が認められると、ナポリ王アルフォンソ2世の庶子であるビシェリエ公アルフォンソ・ダラゴーナと結婚し、1499年に息子ロドリーゴが生まれたが、この子は1512年に12歳で夭折した。1499年にはスポレートの総督にも任じられた。しかし結婚生活は短く、1500年に夫は何者かに暗殺された。フランスとの同盟を強めていた兄チェーザレの関与がささやかれている。1502年、アレクサンデル6世は三度目の結婚を画策し、名門エステ家のフェラーラ公エルコレ1世の嫡子アルフォンソ1世・デステに嫁がせた。夫との間にはのちのフェラーラ公エルコレ2世ら多くの子が生まれ、生涯の子は7人か8人とされる。ただ、夫婦は互いに貞節だったわけではなく、義兄のマントヴァ侯フランチェスコ2世・ゴンザーガや、学者で詩人のピエトロ・ベンボとの関係も伝えられる。彼女はルネサンス期を代表する高雅な公爵夫人として尊敬されるようになった。1503年の父の死後、ボルジア家は没落したが、彼女への高い評価は終生変わらなかった。1519年に女児を出産し、産褥の合併症のため、6月24日にフェラーラで没した。
同じ年に亡くなった人物
- バスコ・ヌーニェス・デ・バルボア (1519年没)
- フアン・デ・フランデス (1519年)
- ヨハン・テッツェル (1519年没)
- ビアンカ・ディ・モンフェッラート (1519年)
- アンブロジウス・ホルバイン (1519年)
同じ地域に関係する人物
- エルコレ・デ・ロベルティ (1496年没)
- ルドヴィーコ・アリオスト (1533年没)
- ジローラモ・ダ・カルピ (1556年没)
- バルバラ・ダウストリア (1572年没)
- ウルバヌス3世 (ローマ教皇) (1187年没)