伝記
サルダール・ムハンマド・ダーウード・ハーンは、1909年7月18日にカーブルで生まれ、1978年4月27日に殺害されたアフガニスタンの政治家である。旧王族の一人で、最後の国王となったザーヒル・シャーの従兄弟にあたる。1953年から1963年まで首相を務め、1973年のクーデターで王政を廃して、初代大統領となった。
父は外交官のムハンマド・アズィーズ・ハーンで、母はフルシード・ベーグムである。父はのちに駐ドイツ大使を務めていた1933年にベルリンで暗殺された。ダーウードと弟のナイームは、その後、叔父のムハンマド・ハーシム・ハーンのもとで育てられ、政治の実際を学んだとされる。フランスで教育を受け、1934年から1935年と1938年から1939年に東部州の知事を、1935年から1938年にはカンダハール州の知事を務めた。1939年に中央軍の司令官に昇進し、1944年から1947年の部族反乱ではサフィー族に対する軍を率いて、全国的に知られるようになった。この軍事的な勝利が、のちの首相就任につながったとされる。1946年から1948年に国防大臣、1949年から1951年に内務大臣を務め、1948年にはフランス大使も務めた。1951年に将軍に昇進し、1953年まで中央軍団の司令官としてカーブルにあった。
1953年9月、家族内の権力移譲により首相に任命された。首相としては国軍の近代化を重要な任務と考え、ソビエト連邦に援助を要請した。1956年からソ連の軍事援助が提供され、アフガン軍にはソ連の軍事顧問団が駐在し、将校はソ連に留学した。軍事のほか、経済や社会、教育制度の改革にも着手し、女性の公的な場での存在感を高めて、自由や教育の機会を広げる試みも進めた。改革に反発したウラマー会議は反政府キャンペーンを組織したが、大規模な弾圧を受け、旧世代のムッラーは影響力を失った。かわって急進的なイスラーム主義を志向するマドラサの学生たちが台頭するようになる。パキスタンの独立後は、アフガニスタンの歴代政府が国境として受け入れてきたデュランド・ラインを認めず、パキスタンのパシュトゥーン人との統合を唱えた。1960年と1961年には国境を越えて軍を送ったが、成果は得られなかったとされる。世論の反発を受け、1963年にザーヒル・シャーによって首相の座を退けられた。
1973年7月17日、病気療養のためザーヒル・シャーが国を離れた隙にクーデターを成功させた。国王を追放して王政を廃止し、共和制への移行と自らの大統領就任を宣言し、1977年2月14日にロヤ・ジルガで正式に大統領に選ばれる。イスラーム主義者への弾圧が強まり、のちにムジャーヒディーンの指導者となるヘクマティヤール、ラッバーニー、アフマド・シャー・マスードらは国外へ逃れざるを得なかった。弾圧は、当初改革を支持していたアフガニスタン人民民主党のパルチャム派にも及んだ。
1978年4月27日、人民民主党支持者の将校が指揮する戦車や飛行機、歩兵の小部隊が軍事クーデターを起こし、ダーウードは家族18人とともに革命派の将校に殺害された。遺体は持ち去られて所在が分からなくなっていたが、2008年に、元革命派将校の証言により駐屯地の庭からクーデターの犠牲者15人の遺体とともに30年ぶりに発見された。2009年3月18日にカーブルで国葬が執り行われ、カルザイ大統領や閣僚、孫が出席した。
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