伝記
ヴィンセント・デュ・ヴィニョーは、1901年5月18日にシカゴで生まれ、1978年12月11日に没したアメリカの生化学者である。脳下垂体のホルモンであるオキシトシンとバソプレシンの分析と合成を行い、生物における硫黄化合物の働きに関する研究で、1955年にノーベル化学賞を受賞した。
フランス系の家柄で、父は発明家で機械工のアルフレッド・デュ・ヴィニョー、母はメアリー・テレサである。シュルツ高校に通い、1918年に中等教育を終えた。硫黄への関心は、高校に入ったとき、新しい友人たちに誘われて硫黄を使った爆発物の化学実験をしたことに始まるという。第一次世界大戦中は上級生が農場で働かされ、イリノイ州カレドニア近くで働くうちに乳搾りの名手になって、農場主になろうと考えた。しかし姉のベアトリスに勧められ、イリノイ大学アーバナ・シャンペーン校で化学を学ぶことになり、化学工学のコースに登録した。カール・シップ・マーベルやハワード・B・ルイスの講義に引かれ、二人が「硫黄について非常に熱心だった」と後年に回想している。家族からの援助は乏しく、さまざまな仕事で学費をまかなった。1924年に修士号を取得したあと、デュポン社に入った。
1924年6月、大学在学中にウェイターとして働いていたときにゼラ・ゾン・フォードと出会い、のちに結婚した。1924年の秋にはマーベルの紹介で、フィラデルフィア総合病院の生化学助手の職を得ている。1925年に学究の道へ戻り、ロチェスター大学のジョン・R・マーリンのもとで博士論文に取り組み、1927年に「インスリンの硫黄」という研究で学位を得た。その後、ジョンズ・ホプキンス大学医学部でジョン・ジェイコブ・エイベルのもとで研究員を務め、1928年から1929年には全米研究会議の奨学金でヨーロッパに渡った。ドレスデンのカイザー・ヴィルヘルム皮革研究所でマックス・ベルクマンらと、エディンバラ大学医学部でジョージ・バージャーと共同で研究を行った。帰国後はイリノイ大学の教授となり、1932年にジョージ・ワシントン大学医学部の生化学の正教授に就き、1938年にはコーネル大学医学部の生化学科教授となった。
研究の主題は硫黄を含む化合物であった。システインやメチオニンといった含硫アミノ酸の生合成とその誘導体の研究を根幹として、脳下垂体ホルモンの合成と構造決定を行った。インスリンやビオチン、ペニシリンの研究でも評価を得ていた。オキシトシンとバソプレシンについては、構造と活性の関係を調べる一連の研究も行い、その成果は『硫黄化学と代謝における研究の道筋』という書物にまとめられた。
受けた賞には、1948年のアルバート・ラスカー基礎医学研究賞、1954年のレムセン賞、1955年のパサノ賞とノーベル化学賞、1956年のウィラード・ギブズ賞がある。1944年にアメリカ科学アカデミーの会員となった。1967年に名誉教授となり、その後もコーネル大学に籍を置いたが、1974年に脳卒中のため引退を余儀なくされた。1977年に妻を亡くし、翌1978年に亡くなった。没した場所はニューヨーク州ホワイトプレーンズである。
同じ年に亡くなった人物
- 于斌 (1978年没)
- ジュゼッペ・インパスタート (1978年没)
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同じ地域に関係する人物
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