伝記
ジャック・ブレルは、1929年4月8日にベルギーのブリュッセル郊外スカールベークで生まれ、1978年10月9日に没したシャンソン歌手、作詞作曲家である。ベルギーで生まれフランスで成功し、その詞の素晴らしさから詩人とも評された。フランス語圏では俳優や映画監督としても知られる。
母語はフランス語だったが、父ロマンはウェスト=フランデレン州の出身で、フラマン人の流れを汲んでいた。母はリゼット・ヴァン・アドルプという。父は妻の兄と板紙工場を共同で経営しており、そこで技術者として働き始めたブレルは、後に父の跡を継ぐと周囲から思われていた。しかし本人に後継ぎになる気は全くなく、カトリック人道主義の青年組織に加入して、歌や演劇に熱心に取り組んだ。1950年には、その組織で知り合ったテレーズ・ミシーエルゼン(愛称ミーシュ)と結婚している。
1950年代初めから、自作曲をナイトクラブで歌って、歌手としてそこそこ知られるようになった。1953年に出した78回転のレコードは200枚程度しか売れなかったが、新人発掘の手腕で知られたジャック・カネッティの目に止まる。板紙工場の仕事を辞めて単身パリに移り、キャバレーやミュージックホールで歌いながら曲を書き溜め、1954年に初のアルバムを発表した。その中の一曲をジュリエット・グレコがリサイタルで取り上げ、名が知られるようになった。妻子をパリに呼び寄せたのち、1956年にはヨーロッパツアーを行い、翌年に初の本格的なアルバム『愛しかない時』を発売して、ACCディスク大賞を獲得した。「行かないで」「フランドルの女たち」「マリーク」「そよ風のバラード」「忘れじの君」などのヒットを次々と飛ばし、一流の仲間入りを果たした。モーリス・シュバリエやミシェル・ルグランとも共演している。
1950年代の末ごろ、ミーシュと3人の娘はブリュッセルに戻り、ブレルは単身での生活を始めた。そのころには友人のジョルジュ・パスキエや、ピアニストのジェラール・ジュアネスト、フランソワ・ローベから影響を受け、スタイルを変えた。詩は、愛や死、人生の苦闘を高らかに歌うものとなり、曲調はより複雑になった。扱うテーマは、愛、政治、精神のあり方と多岐にわたり、ユーモアあふれる曲や情熱的な曲も発表して、そのスタイルの自由さを示した。「アムステルダム」などでは、アルコール中毒患者や麻薬常用者、売春婦を取り上げ、同情だけではない辛辣さも含んだ詩を書いた。
1968年にステージからの引退を表明したが、アルバムの制作は続けた。俳優としても活躍し、1973年のコメディ『ル・ファー・ウエスト』では監督・脚本・出演を担当して、カンヌ国際映画祭のパルム・ドールにノミネートされている。ミュージカル『ラ・マンチャの男』をフランス語に訳し、主演・演出も務めた。1973年にフランス領ポリネシアに移住して一線から身を引き、1974年には自ら船で大西洋横断を成し遂げた。飛行機の操縦にも熱心で、ポリネシアでは双発機を買い、ヒバ・オア島の島民のためにタクシー飛行機をボランティアで飛ばした。1977年にパリに戻り、最後のアルバム『偉大なる魂の復活』を録音した。喫煙者であり、1974年の大西洋横断中に肺癌が見つかって一度手術を受けていたが、1978年、再発した肺癌のためパリ郊外のボビニーで世を去った。遺体はマルキーズ諸島のヒバ・オア島アツオナの墓地に葬られ、近くにはゴーギャンの墓もある。
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