伝記
ハーヴェイ・バーナード・ミルクは、1930年5月22日にニューヨーク州ウッドミアで生まれたアメリカ合衆国の政治家で、ゲイの権利を訴えた活動家である。1951年にニューヨーク州立大学アルバニー校を卒業し、海軍に入隊した。名誉除隊となったが、のちの選挙運動中には、軍隊で数多く行われた同性愛者の粛清の犠牲者だったと語っている。海軍を離れたあとはテキサス州ダラスでしばらく暮らしたが、ユダヤ人であったために仕事を見つけて長く続けるのは難しかった。その後ニューヨーク市に移ってウォール街で働き、トム・オホーガンとともにプロデューサーとして、『レニー』やミュージカル『ジーザス・クライスト・スーパースター』を含む多くの演劇に関わった。
1972年、当時の多くのゲイと同様にサンフランシスコへ移り住んだ。パートナーのスコット・スミスと暮らし、ゲイの街として知られるカストロ地区にカメラ店を開いた。地元の商人による協会を設立し、市役所との交渉では近隣の事業主の代表となるなど、共同体のリーダーとして頭角を現した。自ら名乗った肩書き「カストロ通りの市長」で知られるようになり、選挙のたびに支持者を増やした。1973年と1975年に市議会に立候補して2度落選したが、ジョージ・マスコーニ市長は、地盤の支持への感謝として1976年に許可証嘆願委員会の委員に彼を任命した。その後、州議会議員選挙にも立候補し、対立候補に3,600票差で敗れている。
サンフランシスコが大選挙区制から小選挙区制に切り替わると、1977年の3度目の立候補で市議会議員に当選した。ゲイであることを公表した人物としては、アメリカの大都市で初めて公職に選ばれた。全米の公職者としては、キャシー・コザチェンコ、イレイン・ノーブルに続いて三番目だった。カストロを含む第5区の代表となり、11か月の在職中に、犬の糞の放置に罰金を科す有名な条例や、市の同性愛者の権利法案を後援した。また、教職にある同性愛者をその性的指向を理由に解雇できるとする「条例6」の廃案にも尽力した。条例6は1978年11月にカリフォルニア州の住民投票で否決された。サンフランシスコの民族系住民や労働組合との連帯も築いた。
1978年11月27日、辞職していた前市議ダン・ホワイトが市庁舎に入り、マスコーニ市長とミルクを射殺した。ホワイトは財政的な困難と政治的な挫折のために数日前に辞職していたが、辞表の撤回を試み、マスコーニも最初は再任を約束していた。しかし市の弁護士の意見を聞いたマスコーニが別の人物を任命する決定をしたため、ホワイトは銃と予備弾を持ち、金属探知機を避けて半地下の窓から庁舎に入った。ミルクの葬儀の晩には、自然発生的な追悼の通夜に何千人もが参加した。ミルクは暗殺の危険を察し、そのときに再生するよう音声テープを録音しており、その一つには「もし一発の銃弾が私の脳に達するようなことがあれば、その銃弾はすべてのクローゼットの扉を破壊するだろう」という言葉が含まれていた。
ホワイトは責任軽減が認められ、計画的殺意のない殺人で有罪とされ、7年8か月の禁固刑を宣告された。この判決は寛大すぎると広く非難され、怒ったゲイのコミュニティーは暴動を起こした。この暴動のため160人以上が負傷して入院した。ホワイトは約5年服役して仮釈放となり、1985年に自ら命を絶った。ミルクはゲイの権利運動の殉教者と広く見なされており、1999年にはタイム誌の20世紀の英雄・象徴的人物100人に選ばれ、2009年には大統領自由勲章を授与された。
同じ年に亡くなった人物
- Halyna Kuzmenko (1978年没)
- John Lyng (1978年没)
- F・R・リーヴィス (1978年没)
- カール・ベッツ (1978年没)
- Petro Panch (1978年没)
同じ地域に関係する人物
- アーサー・レイク (1987年没)
- ヴェスタ・ウィリアムス (2011年没)
- エルザ・ランチェスター (1986年没)
- モーリス・コステロ (1950年没)
- エドガー・シャイン (2023年没)