伝記
ペルジーノは、ルネサンス期のイタリアで、ウンブリア派を代表した画家である。本名はピエトロ・ヴァンヌッチで、ペルージャ近郊のチッタ・デッラ・ピエーヴェに、クリストフォロ・ヴァンヌッチの子として生まれた。生年は1448年ごろとされるが確定せず、ヴァザーリらが伝える没年時の年齢から、1445年から1452年のあいだと推測されている。ヴァザーリの記述とは異なり、ヴァンヌッチ家はこの町でも有数の裕福な家であったという。通称の「ペルジーノ」は「ペルージャ人」を意味する。
故郷での若いころの作品は知られていない。修業は、ペルージャの美術に触れたのち、ヴァザーリによれば、ウンブリアやマルケ、トスカーナに点在していたピエロ・デラ・フランチェスカの大作を学ぶことで進んだ。そこから光と記念碑的な量感を取り入れ、面と量の調和を受け継いだ。当時のペルージャにはピエロのほか、ドメニコ・ヴェネツィアーノ、フラ・アンジェリコ、ベノッツォ・ゴッツォリらが滞在して仕事をしており、地元の画家たちは光にあふれ装飾的で、物語が滑らかに流れる絵画を発展させていた。
最初のフィレンツェ滞在は1470年とも1479年ともいわれ、確定していない。父の死後には、ぶどう酒の税を納めるため、いったんチッタ・デッラ・ピエーヴェに戻ったことを示す文書がある。まもなくフィレンツェに戻り、ヴァザーリの証言では、当時最も重要な若い才能の養成の場であったヴェロッキオの工房で学び、油彩を習得した。同じ工房にはレオナルド・ダ・ヴィンチ、ギルランダイオ、ロレンツォ・ディ・クレーディ、フィリッピーノ・リッピ、そしてほぼ同世代のボッティチェッリらが出入りしていたという。輪郭線をやわらかく強調する当時のフィレンツェ派の考え方に触れ、ヴェロッキオからは自然主義と線的な手法を学んだ。1472年までには修業を終え、フィレンツェの画家の同業組合サン・ルカ組合に「画家」として登録され、独立して仕事ができる立場になった。イタリアで最初に油彩を使った画家の一人とされる。
初期の作品には、ロンドンのコートールド美術研究所にある『聖母子(ガンビア・パリー旧蔵)』がある。ピエロ・デラ・フランチェスカに由来する正面向きの構図と量感、ヴェロッキオ風の明快な明暗、フランドル絵画の影響がうかがえ、人物の姿勢や身ぶりの調子、画面に満ちる憂いの感じなど、のちの作風の要素がすでに見える。フィレンツェとペルージャの二つの工房を主宰し、どちらも大いに忙しかった。
ペルジーノの事績のうち重要なのは、ボッティチェッリ、ギルランダイオらとともにバチカンのシスティーナ礼拝堂の壁画装飾を担当したことで、この制作では棟梁的な役割を果たしたとみなされる。若きラファエロの師でもあった。イタリア中から注文を受け、「神のごとき画家」と称えられたが、注文が多すぎたため、同じ主題を繰り返しつつ質の劣る作品も描いたと評される。宗教改革以降、多くの祭壇画が散逸した。人物表現はやや感傷的で類型的だが、優美で上品なのが特色で、フィレンツェのパラティーナ美術館の『マグダラのマリア』は、宗教画であることを忘れさせるほど甘美で官能的な女性像である。輪郭線がレオナルドよりも明瞭なことも特徴とされる。1523年の2月か3月に、フォンティニャーノで世を去った。
同じ年に亡くなった人物
- ミェフフのマチェイ (1523年)
- ヨハンネス・プフェファーコルン (1523年没)
- Bernardino Lopez de Carvajal (1523年)
- ボギスラフ10世 (ポメラニア公) (1523年没)
- ウルリヒ・フォン・フッテン (1523年没)
同じ地域に関係する人物
- ニコラウス・クザーヌス (1464年没)
- ガイウス・ウィビウス・ウォルシアヌス (253年没)
- アッシジのフランチェスコ (1226年没)
- Niccolo di Liberatore (1502年没)
- バリー・アンズワース (2012年没)