伝記
ヴァスコ・ダ・ガマは、ポルトガル王国の探検家で、ヨーロッパからアフリカ南岸を経てインドへ航海した記録が残る最初のヨーロッパ人とされる。この航路の開拓によって、ポルトガル海上帝国の基礎が築かれた。生まれは1460年ごろ(1469年とも)で、アレンテージョ地方の港町シーネスと考えられている。父エステヴァン・ダ・ガマは騎士階級の人物で、のちにシーネスの町長を務め、母イサベル・ソドレはイギリス起源の名家の出であった。兄にパウロとジョアン、弟にペドロとアイレスがいた。教育の詳細ははっきりしないが、港町で育って航海の知識や経験を身につけ、若くして宮廷にも出仕したと考えられる。なお、彼についての史料は少なく、1755年のリスボン地震で王立図書館の記録の多くが失われたためともいわれる。
当時のポルトガルは王室の財政難を抱え、黄金や香料の豊かなインディアスとの直接貿易が志向されていた。ジョアン2世はバルトロメウ・ディアスを派遣し、1488年に喜望峰に達している。しかし1492年にコロンブスが西回りでインディアスに到達し、教皇子午線が発布されると、ポルトガルの活動は事実上アフリカ沿岸に絞られた。1495年にジョアン2世を継いだマヌエル1世は、インド航路の発見に積極的であり、計画が実行に移された。この航海は事前に立案されたもので、未知の海に自ら踏み出したコロンブスとは根本的に異なると説明される。
ヴァスコが司令官に任じられた経緯は不明瞭で、資料も食い違う。ある史料は、任命されていた父が死んで後を継いだとし、別の史料は、最初に指名された兄パウロが病気で辞退したとする。さらに別の史料は、王が重臣たちと選考をしている広間をたまたま通りかかった彼が、その場で任命されたと伝える。艦隊は旗艦サン・ガブリエルのほか、兄パウロが指揮するサン・ラファエル、ニコラウ・コエリョが指揮するベリオ、いとこのゴンザーロ・ヌーネスが指揮する貨物船の4隻で、1497年7月8日にリスボンを出発した。乗組員は約170名とされ、特赦の代償に危険な任務を負う元死刑囚十数名も含まれた。艦隊は大西洋を大きく回りこんで11月に上陸し、22日に喜望峰を通過して、12月には、ディアスが到達した最遠地インファンテ川に至り、ここでポルトガル人未踏の海域に入った。
やがて壊血病で命を落とす船員が出始めた。1492年にグラナダを征服したばかりのイベリア半島から来た彼らは、アラビア語を話すムスリムに強い警戒感を抱いていたという。1498年3月、モザンビークでは水と案内人を得る交渉が進まず、砲撃して現地の人二人を殺し、人質と船を奪って物資を調えた。港の使用料も払わなかった。各港でヴァスコらは決して陸に上がらず、乗組員も人質を交換してからでないと降りなかったため、東アフリカの慣習にそぐわないと評される。マリンディを出てインド洋を渡り、5月20日に、カレクト(カリカット、現在のコーリコード)近郊に着いた。5月28日に13人の部下と上陸し、翌日、国王に親書を渡して目的の一つを果たしたが、贈り物は布地や外套、砂糖などの粗末なもので、役人や商人に笑われた。30日の2度目の謁見で、積み荷の交易許可を得た。しかし、その後、パンダラニの知事に軟禁状態に置かれ、艦隊を沖に留める行為への不信を告げられた。ヴァスコは1524年12月24日か25日に世を去った。
同じ年に亡くなった人物
- ジュリア・ファルネーゼ (1524年没)
- ヨアヒム・パティニール (1524年没)
- アンドレア・ソラーリ (1524年)
- ガーズィー1世ギレイ (1524年)
- 唐寅 (1524年没)
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- O・N・V・クラップ (2016年没)
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