伝記
エリザベス・ビショップは、1911年2月8日、マサチューセッツ州ウースターに生まれたアメリカ合衆国の詩人である。20世紀のアメリカでもっとも重要で優れた詩人のひとりとされる。父は成功した建設業者だったが、彼女の生後8か月で亡くなった。母は精神を病み、1916年に精神病院に収容された。母は1934年に病院で亡くなり、二人は二度と会うことがなかった。後年ビショップは、母の苦難を短編『村にて』に書いている。事実上の孤児となった幼い彼女は、母方の祖父母とカナダのノバスコシアの農園で暮らした。のちに父方の親戚が養育権を得て、ウースターのより裕福な親戚に引き取られたが、そこでの日々を楽しめず、別れた祖父母をなつかしんだ。このころ喘息にかかり、生涯苦しむことになった。
マサチューセッツ州ナトリックの寄宿学校で学び、大恐慌直前の1929年秋にヴァッサー大学に入学した。1933年には、メアリー・マッカーシーらとともに、反抗的な文芸誌を共同で発行している。1934年、大学の図書館員を通じて詩人マリアン・ムーアと出会った。ムーアは彼女の作品に強い関心を持ち、卒業後にニューヨークで薬学校に入ろうと考えていたビショップを思いとどまらせようとしたという。二人の友情はムーアが1972年に亡くなるまで続き、多くの往復書簡が残された。1947年には、ランダル・ジャレルから詩人ロバート・ローウェルを紹介された。ローウェルとも、1977年に彼が亡くなるまで、おもに手紙で深い交友を結んだ。晩年の詩「ノース・ヘイヴン」は、1978年に書かれたローウェルの追悼詩である。
早世した父から、ひとりで生活するのに十分な資産を相続しており、生計を気にせず各地を旅して暮らすことができた。1930年代半ばには、ヴァッサー大学の同級生ルイーズ・クレインとフランスに住み、1938年にはクレインとフロリダ州キーウェストに家を買った。キーウェストでは、ヘミングウェイの二人目の妻だったポーリン・ファイファーと親しくなった。処女詩集『北と南』は1000部が刷られ、ムーアの推薦でホートン・ミフリン賞を受けた。ジャレルは、すべての詩の底に「わたしはそれを見た」という言葉があると評した。
1951年に大学から受けた奨学金をもとに、南米一周の船旅に出た。同年11月にブラジルのサントスに着き、2週間ほどの滞在のつもりが、結局15年間暮らすことになった。そこでブラジルの社交界の名士で建築家のロタ・デ・マチェード・ソアレスと同棲した。のちに二人の関係は悪化し、ビショップがアメリカへ帰ったあと、うつ病にあったソアレスは1967年に自殺した。ブラジル滞在中の1956年、最初の2冊の詩集をあわせた『北と南/寒い春』でピューリッツァー賞詩部門を受賞した。中南米の詩を英語に訳し、その影響も受けた。1949年から1950年にはアメリカ議会図書館の詩のコンサルタント、のちの桂冠詩人を務めた。1976年には、ノイシュタット国際文学賞を女性として初めて受賞した。
1970年代には遺産が尽き始め、ハーバード大学などで教えた。1971年にアリス・メスフェサルと出会い、彼女がパートナーとなった。ビショップは自分を「レズビアン詩人」や「女性詩人」とは考えず、性別や性的指向でなく、作品の質で評価されることを望んだ。1977年に最後の詩集『地理三課』を出版し、1979年10月6日、脳出血で亡くなった。ウースターに葬られている。幼いころを過ごしたノバスコシアの家は、グレートヴィレッジに「エリザベス・ビショップ・ハウス」として残されている。
同じ年に亡くなった人物
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- Frans de Bruyn Kops (1979年没)
- Istvan Orkeny (1979年没)
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- Dany Dauberson (1979年没)
同じ地域に関係する人物
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- トーマス・ハックル・ウェーラー (2008年没)
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