HISTORICAL PERSON · 1979年没

メアリー・ピックフォード

カナダ出身の女優・プロデューサー。サイレント映画期の大スターで「アメリカの恋人」と呼ばれ、年間100万ドルを稼いだ最初の女優だった。

生涯
1979年没
死亡地
アメリカ合衆国(カリフォルニア州 / サンタモニカ)
出生地
カナダ(トロント)
出典
世界地図
アメリカ合衆国(カリフォルニア州)

伝記

メアリー・ピックフォードは、サイレント映画時代の大スターで、「アメリカの恋人」と呼ばれた女優・プロデューサーである。1892年4月8日、カナダのトロントに、グラディス・ルイーズ・スミスとして生まれた。父ジョン・チャールズは、イングランド系のメソジスト教徒移民の子で、さまざまな仕事を転々とし、酒に溺れていた。母シャーロットは、アイルランド系カトリックの家柄で、裁縫の仕事をしたこともあった。妹ロッティと弟ジャックはのちに俳優となり、ジャックは映画監督・プロデューサーにもなった。父は1898年2月、勤め先の汽船会社で起きた事故が原因の血栓で亡くなった。5歳のメアリーは母の叫び声とともにこの出来事を経験し、生涯その記憶に苦しんだとされる。一家は「ウォード」と呼ばれる病気の多い貧しい地区に住み、子どもたちは母方の祖母の願いでカトリックの洗礼も受けた。

父の死後、母は下宿を始め、その下宿人の劇場支配人の勧めで、7歳のグラディスと6歳のロッティが舞台に立った。メアリーはトロントの劇団でメロドラマに多く出演し、トロント時代の最後には『アンクル・トムの小屋』の小さなエヴァ役を主演した。1901年に一家は演劇を家業にしようとアメリカへ渡り、巡業の劇団に加わった。三流の劇団を鉄道で巡る貧しい暮らしで、メアリーは母を助けて弟妹の世話をした。巡業中は正規の学校教育を受けず、読み書きは、母が買った入門書で覚えた。ニューヨークに住んでからは、ブロードウェイの名プロデューサー、デヴィッド・ベラスコの事務所に何か月も通い続け、1907年の舞台『バージニアのウォーレン家』の子役に雇われた。ベラスコは名前が気に入らず、中間名と祖母の旧姓ピックフォードを取って「メアリー・ピックフォード」とした。

1909年、15歳のときに名監督D・W・グリフィスに認められて映画に出た。小柄で若々しく、無邪気な少女の役で人気を集めた。年間100万ドルを稼いだ最初の女優で、浪費家だった同時期のスター、グロリア・スワンソンと違い、貯金もする倹約家だったという。1916年に自らの会社「メアリー・ピックフォード・カンパニー」を設立し、自分の出演作のプロデュースも行った最初の女優となった。1919年には、グリフィス、ダグラス・フェアバンクス、チャールズ・チャップリンらとユナイテッド・アーティスツ社を共同で設立し、『青春の夢』や『小公子』に主演した。1922年にはドイツの監督エルンスト・ルビッチをハリウッドに招き、『ロジタ』に出演した。

1920年にフェアバンクスと結婚し、二人は「ピックフェア」と呼ばれて親しまれたが、1936年に離婚した。1929年には、初のトーキー出演作『コケット』でアカデミー主演女優賞を受けた。1933年に俳優を引退すると、プロデューサーとして映画制作に加わり、化粧品会社などを設立して実業家としても活躍した。その後アカデミー名誉賞を授与された。1979年5月29日、脳内出血のためサンタモニカで87歳で亡くなり、フォレストローン墓地に埋葬された。「失敗とは転ぶことではなく、転んだまま起き上がらないことです」という言葉を残したとされる。

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