伝記
フランシスコ・マシアス・ンゲマは、1924年1月1日、スペイン領ギニアのリオ・ムニ地方ンセガヨン村(現在のモンゴモ)で、貧しい農民の家に生まれた赤道ギニアの政治家である。ファン人の出身で、生まれたときの名はメズ・ム・ンゲメともマシエ・メ・ンゲマともいわれる。9歳のときに父が植民地の役人に殴られて死に、その1週間後に母が自ら命を絶って、兄弟とともに残された。彼はほかの若いファン人とともに保護され、裕福なスペイン人に育てられた。
カトリックの伝道所の学校で学んだが、正規の学歴は初等教育だけだった。洗礼を受けた際にフランシスコ・マシアスと改名し、母語のファン語に加えてスペイン語を覚えた。10代にはスペイン人入植者のもとで召使いとして働き、従順だと評された一方で、ほかのファン人からは嘲りを受けた。行商人として働いたこともある。1938年には植民地の行政機関に入り、補助行政官の資格を得た。のちに現地議会の急進的な独立派の議員となり、植民地支配が終わると、選挙によって初代大統領に選ばれ、独立直前の1968年9月に就任した。外交ではソ連圏と緊密な関係を保ち、国民と外の世界との接触を抑える一種の鎖国政策をとった。
就任直後の1969年3月5日、クーデター未遂に直面したが、これを鎮圧した。以後、1972年までに国家の全権力を握り、国内のすべての政党を自らが率いる単一政党に統合した。1970年には野党の活動を禁止している。1972年7月には終身大統領を宣言し、政敵に激しい弾圧を加えた。1973年には、大統領への絶対的な権力の集中を定める憲法を採択して独裁体制を固めた。恐怖政治で多くの反体制的な国民を粛清したため、国民の3分の1が亡命者として国外へ逃れる異常事態が起こったとされる。明確なイデオロギーは持たず、過激な国家主義を掲げ、自らをマルクス主義者と宣言する一方で、フランコとヒトラーを公然と賞賛し、「マルクス主義者・ヒトラー主義者」と称した。「マシアス以外に神はいない」という言葉を国の標語とし、何度も名前を改め、ビオコ島には1973年から1979年までその名が付けられた。中央銀行総裁の殺害を命じ、国庫の財源を略奪したともいわれる。
1979年、甥で刑務所長のテオドロ・オビアン・ンゲマが主導し、ガボン軍とモロッコ人傭兵の支援を受けたクーデターで打倒された。マラボで開かれた公開裁判で死刑判決を受け、同年9月29日に処刑された。失脚時、妻と子供は北朝鮮に亡命したという。
同じ年に亡くなった人物
- Johan Borgen (1979年没)
- ジャック・マルホール (1979年没)
- Virgilio Pinera (1979年没)
- スタン・ケントン (1979年没)
- Werner Kaegi (1979年没)
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