伝記
フアン・セバスティアン・エルカーノは、スペイン王国に仕えたバスク人の船乗り・探検家で、ギプスコア地域のゲタリアの出身である。生年は1476年とされるが、1486年か1487年とする資料もある。姓は「デル・カーノ」とも綴られ、書き手によって表記が分かれる。母カタリナ・デル・プエルトと父ドミンゴ・セバスティアン・エルカーノには8人の子があり、フアンは4番目にあたる。母方のプエルト家は聖職者や書記を出した有力な家で、弟のうち3人は船乗りとなり、のちにフアンとともに香料諸島への航海に加わった。父は1500年にゲタリアで課された大きな税の納税者名簿で13番目に載り、町でも裕福な家の一つだったと考えられている。
若いころは商船の船主として、地中海で商人として活動した。しかしスペインの法を犯したため、自分の船をジェノヴァの銀行に差し押さえられ、国王カルロス1世に恩赦を求めた。このとき国王が出した条件は、航海士としてマゼランの航海に協力することであり、彼はこれを受け入れて1519年にマゼランの大遠征に加わった。航海の途中では、マゼランに対する乗員の反乱に加わったが、鎮圧された。のちにマゼランに許され、5隻の船団の1隻コンセプシオン号の船長を任された。
1521年4月27日、フィリピンのマクタン島で現地の人々と戦ってマゼランが死ぬと、船団はすでにサンチアゴ号とサン・アントニオ号を失って3隻に減っていた。指揮官は何度も入れ替わり、損傷の激しいコンセプシオン号はセブ島で焼き捨てられ、船団はビクトリア号とトリニダード号の2隻になった。香料諸島のティドレ島に着いたのち、トリニダード号は太平洋を戻ることになり、ビクトリア号の船長となっていたエルカーノが、香辛料を満載して残りの航海を指揮した。1522年3月18日、インド洋南部を航行中に、のちにアムステルダム島と呼ばれる島を発見したが、命名はしなかった。
同年9月6日、スペインのサンルーカル・デ・バラメーダに帰還し、世界一周を果たした。出航時に265名いた乗員は、エルカーノを含めて18名に減っていた。ほかに途中から乗り込んだ4名のアジア人がいた。モルッカ諸島から持ち帰った香辛料によって乗員は富を得、エルカーノには、地球の図の上に「我を一周せし最初の者」を意味するラテン語の文字を配した紋章と、生涯にわたる多額の年金がカルロス1世より与えられた。確実な記録のある最初の世界周航をしたのは、彼やピガフェッタら生還した18人である。
1525年、ガルシア・ホフレ・デ・ロアイサの率いる7隻の船団に船長として加わり、再び香料諸島へ向かった。この航海で2度目の世界一周を試みたが、エルカーノもロアイサも太平洋上で壊血病と栄養失調のため死去し、エルカーノの死は1526年8月4日である。遺言では、ゲタリアで産ませた息子ドミンゴの母に100ドゥカードを遺し、バリャドリードの娘マリアには40ドゥカードを残した。約束された年金は、10年後に母カタリナが国王に願い出たという。なお、伝記作家ツヴァイクは、マゼランの奴隷で通訳のマレー人エンリケこそ最初の周航者だと述べたが、エンリケの消息はセブ王の宴会の罠のあと不明である。
同じ年に亡くなった人物
- ピエトロ・マルティーレ・ダンギエーラ (1526年)
- ラヨシュ2世 (ハンガリー王) (1526年没)
- シェフザーデ・アブドゥラー (1526年)
- ガルシア・ホフレ・デ・ロアイサ (1526年没)
- イブラーヒーム・ローディー (1526年没)
同じ地域に関係する人物
- フアン・アルトラ (1937年没)
- チリャルデギ (2012年没)
- ルイス・マリン・サバテル (1974年没)
- マヌエル・ガルシア・プリエト (1938年没)
- アルベルト・オルマエチェア (2005年没)