HISTORICAL PERSON · 1979年没

ジャン・モネ

フランスの実業家・政治家。国際連盟の事務次長を務め、西ヨーロッパの重工業の統合計画を進めたことで、欧州連合の父の一人とされる。

生涯
1979年没
死亡地
フランス共和国(イヴリーヌ県 / The Jean Monnet House)
出生地
フランス共和国(コニャック)
出典
世界地図
フランス共和国(イヴリーヌ県)

伝記

ジャン・オメール・マリ・ガブリエル・モネは、1888年11月9日にフランス西部シャラント県のコニャックで、コニャックを扱う商人の家に生まれた。父ジャック・ガブリエルは中規模の蒸留・販売業者を引き継ぎ、1901年に社名を改めた。母マリーは深い信仰を持ち、姉妹のマリー・ルイーズは、フランスのカトリック・アクションの創設者の一人で、モネも資金面で貢献した。家には世俗主義や共和主義の価値と、強いカトリックの伝統が同居していたという。モネは大学入学資格を取らず、イギリスに渡ってロンドンで商売を学び、さらにカナダ、アメリカ、北欧、ロシアを家業のために旅し、健康上の理由でエジプトにも行った。

第一次世界大戦が始まると、連合国が勝つ道は英仏の戦争努力を結びつけることにしかないと確信し、戦争資源を調整する構想を温めた。1914年には家族の友人の仲介で、ボルドーでフランスの首相ルネ・ヴィヴィアニと会い、原則的な同意を得た。最初の2年間は大きな成果を上げられなかったが、1916年末に小麦委員会、1917年末に連合国海運評議会ができて、協力が進んだ。パリ講和会議では、商工大臣エティエンヌ・クレマンテルの補佐を務めた。クレマンテルが提案した、ヨーロッパの協力に基づく「新しい経済秩序」の案は、1919年4月に連合国に退けられた。

戦時の委員会を組織した経験を買われ、1919年の国際連盟の創設にあたり、クレマンソーとバルフォアから事務次長を求められた。1922年末に連盟を去り、困難を抱えていた家業の経営に専念した。連盟の弱さに幻滅したからではない、と本人は語っている。1925年にはアメリカに渡って、ニューヨークの銀行ブレア商会の共同経営者となり、国際金融家として、中東欧のいくつかの国の経済の再建に役立った。1927年にはポーランドのズウォティを、1928年にはルーマニアのレウを安定させた。1932年11月には、中国の財務大臣から招かれて、経済開発のための委員会の議長を務め、六か月の中断を除いて1936年初めまで中国で暮らした。

第二次世界大戦ではフランスとイギリスの軍事物資の共同委員会の特別委員長となり、戦後はフランスの復興で要職に就き、モネ・プランを立案した。この計画から西ヨーロッパの鉱工業の共同化構想が生まれ、1950年5月9日にフランス外相ロベール・シューマンがシューマン宣言として発表した。モネはこの構想を協議する場の議長を務め、欧州石炭鉄鋼共同体が設立された。1952年から1954年までその最高機関の初代委員長を務めた。選挙で選ばれた公職に就いたことはなかったが、米欧の政府の裏側で働く「実務的な国際主義者」であった。ド・ゴールとは、1940年6月中旬にロンドンで初めて会ってから、1970年11月にド・ゴールが死ぬまでの30年にわたり、協力と不信が入り交じる関係を続けた。1953年にカール大帝賞、1963年にケネディ大統領から大統領自由勲章を受けた。1975年に活動を引退し、1976年には初のヨーロッパ名誉市民となった。1979年3月16日に没し、生誕100年の1988年に遺骨がパンテオンに移された。

同じ年に亡くなった人物

同じ地域に関係する人物