伝記
ニーノ・ロータは、本名をジョヴァンニ・ロータ・リナルディといい、1911年12月3日に北イタリアのミラノで生まれた作曲家、指揮者である。クラシック音楽と映画音楽の両分野で活躍した。父エルコレは会計士で実業家、母エルネスタは、ピアニストで作曲家のジョヴァンニ・リナルディの娘であった。12歳でミラノのジュゼッペ・ヴェルディ音楽院に入り、パオロ・デラキらに学んだ。11歳でオラトリオを、13歳でオペラを作曲したとされ、最初のオラトリオ「洗礼者ヨハネの幼年時代」はミラノとパリで上演されて、作曲家、指揮者として早くも一定の名声を得た。
その後もミラノでイルデブランド・ピツェッティに、ついでローマでアルフレード・カゼッラに学び、1929年にローマのサンタ・チェチーリア音楽院に入って、作曲の資格を得た。翌年にはローマの公立高校で大学入学資格試験にも合格している。奨学金を得てアメリカのカーティス音楽学校に渡り、フィラデルフィアで2年間、フリッツ・ライナーに指揮を、ロザリオ・スカレーロに作曲を学んだ。帰国後はミラノ大学で文学と哲学を並行して専攻し、ルネサンス期の作曲家ジョゼッフォ・ツァルリーノについての論文を発表した。
1937年からは音楽教師の道に進み、作曲家としての活動と並行して続けた。1950年にはバーリの音楽院の院長となり、没するまでその職にあったという。南イタリアのモノーポリにも音楽院を設立するために尽力し、1971年の開校時から院長を務めた。この音楽院は2004年に、彼を記念して「ニーノ・ロータ音楽院」と名称を改めている。映画のための最初の楽譜は1933年に書き、1942年以降は映画音楽の作曲を本格的に始めた。レナート・カステッラーニ、アルベルト・ラットゥアーダ、ルイジ・コメンチーニら、数多くの監督と仕事をした。
1951年、当時新進の映画監督として注目されていたフェデリコ・フェリーニと、そのデビュー作『白い酋長』の仕事で出会い、以後、自身が亡くなるまで、フェリーニの映画音楽を数多く手がけた。『青春群像』『道』『甘い生活』『8 1/2』『サテリコン』『アマルコルド』『カサノバ』などが、その成果である。『8 1/2』の音楽は、映画の「一貫性」を生んだ要素の一つとしてよく引かれる。フェリーニ以外の作品では、1968年のフランコ・ゼフィレッリ監督『ロミオとジュリエット』や、ルキノ・ヴィスコンティ監督の『山猫』『若者のすべて』を担当した。フランシス・フォード・コッポラ監督の『ゴッドファーザー』の音楽は代表作となり、「愛のテーマ」は広く親しまれた。1975年には続編の『ゴッドファーザー 第二部』でアカデミー作曲賞を受賞している。本人は「本業はあくまでクラシックの作曲であり、映画音楽は趣味にすぎない」と語っていたが、映画音楽の分野で多大な業績を挙げ、死後はクラシックの作品も注目を浴びるようになった。
1975年と1976年の2回来日し、1976年には国内11か所で自作を取り上げたコンサートを開き、自ら指揮棒も振った。1979年4月10日、フェリーニの『オーケストラ・リハーサル』の録音を終えた直後に、ローマで死去した。67歳であった。生涯結婚はしなかったが、娘が1人いる。
同じ年に亡くなった人物
- ジョン・ノートン (1979年没)
- Ermindo Onega (1979年没)
- フアナ・デ・イバルボウロウ (1979年没)
- Constant Joacim (1979年没)
- アレクサンドル・モロゾフ (1979年没)
同じ地域に関係する人物
- サイ・トゥオンブリー (2011年没)
- ジャコモ・ロッシ・スチュアート (1994年没)
- ピウス3世 (ローマ教皇) (1503年没)
- オットー2世 (神聖ローマ皇帝) (983年没)
- ジョセフ・カラサンス (1648年没)