伝記
ニッコロ・マキャヴェッリは、1469年5月3日に生まれたイタリア・ルネサンス期の政治思想家で、フィレンツェ共和国の外交官である。父は法律家のベルナルド、母はバルトロメーア・ネッリで、その3人目の子だった。家はフィレンツェ共和国の要職を何人か出した名家だが、父の年収は110フィオリーノで、中流ではあっても裕福ではなかった。本人は後年、「私は貧しく生まれた。だから、楽しむより先に、苦労することを覚えた」と記している。ローマ・ギリシャの古典やラテン語を学んで育ち、その青少年期は、大ロレンツォの独裁、1494年のメディチ家追放、1498年のサヴォナローラの失脚と処刑といった、共和国の激動期と重なっている。
1498年5月18日にピエロ・ソデリーニ政権の第2書記局官に選ばれ、すぐに書記長となった。7月には「自由と平和のための十人委員会」の秘書官にも任じられた。1499年からのピサ攻略では、傭兵隊長ヴィテッリが軍を撤退させて計画が崩れ、ヴィテッリは反逆罪などで処刑された。1500年のピサ戦役には軍事顧問の副官として参加したが、同盟を結んだフランス王の援軍は命令を聞かず、示威行為に付き合わされ、周辺を略奪して、7月にはスイス兵も引き払った。フランス王は一方的に同盟の破棄を宣言し、彼は共和国の副使として弁明のためフランスへ赴いた。のちの「自国の軍を持つ必要性」の主張は、この年の経験に基づくとされる。各国の為政者や古典の歴史上の人物を見聞きするなかで、権謀術数に長けた教皇軍総司令官チェーザレ・ボルジアに理想の君主像を見出すようになった。
彼は傭兵に頼らない軍事力こそ国の根源だと確信し、国民軍の創設を計画して実現させたが、期待された成果を挙げないまま、ソデリーニ政権は1512年、メディチ家の復権を支援するスペインの前に屈服し、彼は第2書記局長の職を解かれた。1513年2月にはボスコリ事件に加わった容疑で指名手配され、19日に自ら出頭して逮捕され、地下牢で縄に吊るされる拷問を6回受けた。3月にジョヴァンニ・デ・メディチが教皇に選ばれた大赦で釈放されたが、年収の10年分にあたる金額を友人3人に借りて支払った。43歳で隠遁を余儀なくされ、家族7人でサンタンドレアの山荘に移り、昼は農業や近所の庶民との賭け事、夜は読書と執筆に明け暮れた。1513年12月10日の友人ヴェットーリ宛の手紙には、夜に官服に着替えて『君主論』をまとめていることが綴られ、イタリア文学史上最も美しい手紙の一つとされる。
『君主論』は、ロレンツォ・デ・メディチに献上された。君主が権力を維持し政治を安定させる方法を説き、運命(フォルトゥーナ)を引き寄せるだけの技量(ヴィルトゥ)が君主には必要だとし、チェーザレ・ボルジアを例に、イタリア半島統一を実現しうる君主像を論じた。『リウィウス論』では古代ローマ史を例に、偉大な国家を作る原則を立てた。彼は「私は我が魂よりも、我が祖国を愛する」と友人への書簡に記した。1520年の反メディチの陰謀のあとも、ジュリオ・デ・メディチ(のちのクレメンス7世)は彼を咎めず、著作の執筆を依頼した。しかし1527年5月6日のローマ略奪でメディチ家が追放されると、彼も政権から追われ、共和制支持派からは裏切り者と、別の者からは狡猾者と非難され、失意のうちに病を得て、6月21日に急死した。
同じ年に亡くなった人物
- Nam Kon (1527年)
- コルネリス・エンゲブレフツゾーン (1527年没)
- シャルル・ド・ラノイ (1527年没)
- キャサリン・オブ・ヨーク (1527年)
- フランチェスコ・コロンナ (1527年没)
同じ地域に関係する人物
- エミリオ・プッチ (1992年没)
- デジデーリオ・ダ・セッティニャーノ (1464年没)
- ヤコポ・ペーリ (1633年没)
- セオドア・パーカー (1860年没)
- フランチェスカ・カッチーニ (1640年没)