伝記
ヴラジーミル・セミョーノヴィチ・ヴィソツキーは、1938年1月25日にモスクワで生まれたソ連の詩人、俳優、シンガーソングライターである。父セミョーン・ヴラジーミロヴィチはキエフ出身のユダヤ人で、母ニーナ・マクシモヴナはロシア人のドイツ語翻訳者であった。一家はモスクワの共同住宅に暮らした。母は大の演劇好きで、幼いころから13、14歳になるまで、毎週土曜日に彼を劇場へ連れて行ったという。のちに本人は、家族に芸術に関わる者はいなかったが、母の習慣がそのまま身についたのだろうと振り返っている。椅子の上に立って詩を朗読する少年で、ユーモアの感覚は並外れていた。第二次世界大戦が始まると、予備役将校だった父が前線に送られ、母と子は疎開した。1946年12月に両親が離婚し、1947年から1949年までは、軍人の父とその再婚相手のもとで、占領下のドイツの基地で暮らした。
1953年に演劇と映画に強く惹かれて演劇講座に通い、この年に母から誕生日の贈り物として初めてのギターを受け取った。親友のイーゴリ・ホハノフスキーが基本のコードを教えた。1955年に学校を優秀な成績で卒業し、土木大学に入ったが、1年で退学して俳優の道を選び、1956年にモスクワ芸術座演劇学校に入学した。ここで、のちの妻となるイザ・ジューコワと出会った。すでに地下で人気の吟遊詩人だったブラート・オクジャワと知り合ったのも、この学校である。1958年にモスクワ芸術座で初めて役を得た。のちにリュビーモフのタガンカ劇場に加わり、『ハムレット』のタイトルロールの演技で名声を得た。同劇場では、『ガリレイの生涯』のガリレイ、『桜の園』のロパーヒン、『罪と罰』のスヴィドリガイロフなどの役も演じた。
1960年代にはオクジャワらとともに吟遊詩人の運動に参加し、しわがれ声でギターを弾きながら歌い始めた。体制を厳しく批判する内容であったため、生前には詩集を1冊も、レコードを1枚も出すことを禁じられていた。それにもかかわらず、ソ連の国民にとってのヒーローであり、良心であった。彼の歌を収めたカセットテープは何度もダビングされ、人の手から手へと渡ってソ連中に広まり、モスクワから遠く離れた小さな村の家の窓からも、その歌が響いていたといわれる。
1980年7月25日、モスクワ・オリンピックのさなかに、42歳の若さで亡くなった。葬儀が行われたタガンカ劇場の周りには、前例のない10万人から20万人の人々が集まり、オリンピックの警備陣から数千人が流用されたという。ロシアのジャック・ブレル、ジョン・レノンやボブ・ディランに例えられることも多い。ロシアの国営テレビなどが共催した「ロシアの英雄」の人気投票では、ニコライ2世、スターリン、レーニンに次ぐ4位になった。最後の妻は、ロシア系フランス人の女優マリナ・ヴラディで、彼の曲はフランスで録音されたものが多い。彼の歌は、アメリカ映画『ホワイトナイツ/白夜』でも使われた。日本でも、1980年に追悼の曲を発表した歌手グラツキーがその曲を1990年のNHK紅白歌合戦で歌うなど、広く知られる機会があった。
同じ年に亡くなった人物
- ファビアン・フォン・シュラーブレンドルフ (1980年没)
- 湯浅年子 (1980年没)
- Erast Garin (1980年没)
- ドロシー・フィリップス (1980年没)
- ローズ・ヴァラン (1980年没)
同じ地域に関係する人物
- ホヴハンネス・トゥマニャン (1923年没)
- Elizaveta Mukasei (2009年没)
- レフ・ランダウ (1968年没)
- German Apukhtin (2003年没)
- アンドレイ・パニン (2013年没)