伝記
アレクセイ・ニコラエヴィチ・コスイギンは、1904年2月21日にロシア帝国のサンクトペテルブルクで、労働者階級の家庭に生まれたソビエト連邦の政治家である。父はニコライ・イリイチ、母はマトロン・アレクサンドロヴナで、乳児期に母を亡くしたあとは、父に育てられた。ロシア革命に遭遇して、1919年に赤軍に志願した。1921年に召集を解除されると、レニングラードの生活協同組合の技術学校に入り、シベリアのノヴォシビルスクの生活協同組合に就職した。同地に6年間滞在したあと、ソ連共産党への入党を志願して、1927年に入党した。1930年にレニングラードに戻って専門学校で学び、1935年に卒業した。織物工場の職長、工場長として勤務中に大粛清に遭遇し、1938年から1939年までレニングラード市長を務めた。
1939年から1940年まで織物工業人民委員を務め、以後、軽工業を中心に経済関係の役職を歩んだ。1939年に党中央委員に選ばれ、1940年には人民委員会議の副議長(副首相)になった。独ソ戦では国家防衛委員会の委員となり、避難評議会の副議長としてドイツの侵攻に対し、ヨーロッパ・ロシアの企業や工場をウラル山脈以東に疎開させ、鉄道の安定運行を維持することに尽力した。1943年にはロシア共和国人民委員会議議長(首相)に昇進した。戦後の1946年に党政治局員候補となり、ソ連の副首相に就任し、1948年9月4日には政治局員に昇進した。しかし、後見人だったアンドレイ・ジダーノフが同年8月に突然死すると、古くからの政敵ベリヤとマレンコフが、ジダーノフ派を排除するようスターリンを説得した。この粛清でレニングラード事件がでっち上げられ、数名の共産党員が逮捕、処刑されたが、コスイギンは軽工業大臣に降格されるにとどまった。
スターリンの死から半年後の1953年9月に工業製品大臣となり、12月には副首相に復帰した。1957年の反党グループ事件ではフルシチョフを支持した。マレンコフ一派が勝利すれば血が再び流れると考えたから、と後に述べている。その後、キャリアは着実に回復し、1960年5月に第一副首相となって、フルシチョフ、コズロフ、ブレジネフと並ぶ「ビッグ4」の一角を占めた。しかし1962年11月、フルシチョフがコスイギンの経済改革計画を批判したのち、指導部の中枢からは外された。フルシチョフが失脚すると、後任のソ連首相(閣僚会議議長)になった。1965年9月には、企業の分権化を図る経済改革(コスイギン改革)を推進したが、1960年代末までに頓挫した。
内政を担当したが、外交でも、政府の長が外交を行うべきだと考えて動いた。1966年にはインドとパキスタンを仲介してタシュケント宣言に署名させ、1967年にはアメリカのジョンソン大統領と会談した。1970年8月12日には、西ドイツのブラント首相の訪ソに際し、モスクワ条約に調印した。1968年のプラハの春以降、政治局内でブレジネフの優位が決定的になり、1970年代にはコスイギンの権限は縮小された。1976年に最初の心臓発作を起こし、1980年10月に持病の悪化で入院して辞表を提出した。同年12月18日、76歳で死去した。遺灰はクレムリンの壁に葬られた。
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