HISTORICAL PERSON · 1980年没

カーネル・サンダース

アメリカの実業家。ケンタッキーフライドチキンの創業者で、65歳で無一文になりながら1,010回目の売り込みで最初の契約を得た。

生涯
1980年没
死亡地
アメリカ合衆国(ケンタッキー州 / ルイヴィル)
出生地
アメリカ合衆国(ヘンリービル)
出典
世界地図
アメリカ合衆国(ケンタッキー州)

伝記

カーネル・サンダースこと、ハーランド・デイヴィッド・サンダーズは、1890年にインディアナ州クラーク郡のヘンリービルで生まれた、アメリカ合衆国の実業家で、ケンタッキーフライドチキンの創業者である。ヘンリービルは、ケンタッキー州最大の都市ルイビルからオハイオ川を越え、北へ30キロほど離れた町である。父は6歳のときに亡くなり、母が工場で働きながら、サンダースと弟妹を育てた。10歳から農場に働きに出て、14歳で学校を辞め、農場の手伝いや市電の車掌として働いた。1906年、16歳のときに年齢を偽って陸軍に入隊し、キューバで勤務したが、軍歴は一兵卒として終わった。1907年に除隊したあとは、鉄道の機関車の修理工、ボイラー係、機関助手、保線区員、保険の外交員、フェリーボート、タイヤのセールスなど、40種に上る職を転々とした。30代後半にはケンタッキー州ニコラスビルでガソリンスタンドを経営するようになったが、大恐慌のあおりを受けて倒産するなど、多くの波瀾を経験した。

1930年、ケンタッキー州のコービンの北隣のノースコービンに移り住み、再びガソリンスタンドを始めた。同年6月、客から言われた一言をきっかけに、物置を改造した6席のレストラン・コーナー「サンダース・カフェ」を始めた。ハンバーガーやフライドチキン、ハム、ステーキ、パンなどを出し、ガソリンスタンドの支配人と調理師とレジ係を兼ねた。幹線道路に面した店は繁盛して規模を広げ、1935年には「州の料理への貢献」が評価されて、ルビー・ラフーン知事から「ケンタッキー・カーネル」の名誉称号を与えられた。カーネルは名前でも軍隊の階級でもなく、ケンタッキー州に貢献した人に与えられる名誉称号である。1937年には、モーテルを併設した142席のレストランに成長した。1939年に店舗が火災に見舞われたが、1941年にはコービンに147人収容のレストランを再建した。1939年に導入した圧力釜を用いたフライドチキンの製法は、以後80年以上にわたって「オリジナル・レシピ」として引き継がれている。

1952年、各地のレストランの経営者や従業員に調理法を教え、チキン一羽につき5セントで売るというフランチャイズの事業を始めた。この年、ユタ州ソルトレイクのピート・ハーマンが最初のフランチャイジーとなり、「ケンタッキー・フライドチキン」というブランド名も、このときハーマンが提案した。ところが1955年、コービンの町外れを通る州間高速道路が開通すると、車と人の流れが変わり、国道沿いのカフェは客が入らなくなった。店を手放し、負債を返すと、手元にはほとんど残らなかった。65歳にして再び無一文になったが、フライドチキンのレシピを持って全米のレストランに売り込み、1,010回目にしてようやく最初の契約を得たとされる。フライドチキンをワゴン車に積み、各地を移動販売して回り、1960年には米国とカナダで400店舗、1964年までに600店舗を超える網を築いた。

1964年、74歳でこの権利をジョン・Y・ブラウン・ジュニアに売却して第一線から退いたが、その後も「味の親善大使」として、製法が守られているか確かめるために、世界各国の店を見て回った。1972年10月、1978年6月、1980年5月と、日本を3度訪れている。1980年6月に急性白血病を発症し、肺炎を併発して、同年12月16日に90歳で死去した。ロータリークラブの会員で、孤児院の子供たちのために毎日アイスクリームを提供するなど、多くの慈善活動も行った。

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