伝記
アルフレッド・ジョゼフ・ヒッチコックは、1899年8月13日にロンドン東部の郊外で生まれたイギリスの映画監督で、のちにナイトに叙された。鶏肉店と青果物の卸売商を営む父ウィリアム・エドガーと、母エマ・ジェーンの3人の子供の末っ子で、兄と姉は9歳と7歳上であった。一家は、国教会が多数を占めるイングランドでは少数派の、アイルランド系のローマ・カトリック教徒だった。幼いころは内向的でおとなしく、遊び友達もなく、地図や時刻表を研究したり、旅行案内書を読んだりして過ごした。8歳になるまでにロンドンの馬車鉄道の全線を制覇し、イギリスのほとんどの鉄道路線の時刻表を暗唱して家族を驚かせたという。家の壁には巨大な海図を貼り、航行中の商船の位置を日ごとに記入していた。
父からは「けがれなき小羊くん」と呼ばれたが、規律を重んじる父に厳しくしつけられた。本人が好んで話した逸話に、5、6歳のころ、父に手紙を持たされて近くの警察署に行かされ、中身を読んだ警察官に「わるい子にはこうするんだよ」と留置場に数分間閉じ込められた話がある。この経験から、生涯にわたって警察や監獄に恐怖心を抱き、それが作品のモチーフになったという。1910年、11歳でイエズス会のグラマースクールに入学したが、学校は体罰で知られ、後年には「恐怖という感情が育まれた」と述べている。一方で、規則や教師に反抗して卵を盗んで窓にぶつけ、「コッキー」とあだ名された。
1913年に13歳で学校を修了し、エンジニアになりたいと言って夜間の専門学校で力学や電子工学などを学んだ。翌年、ロンドンの電信ケーブル会社に就職したが、その1か月後の12月12日に父が52歳で亡くなった。やがて仕事に飽き、美術学校の夜間コースでイラストを学び、映画や演劇に親しむようになった。アメリカ映画のD・W・グリフィスの作品に強い感銘を受けている。会社の広告部門に移り、1919年には社内誌の創刊編集者となって短編小説も寄せた。同じ年に、サイレント映画の字幕デザイナーの募集に応募して採用され、1921年にフルタイムの従業員となった。美術監督や助監督などを経て、1925年に監督としてデビューした。
最初の成功作『下宿人』(1927年)で初めてサスペンス映画を手がけ、『恐喝』(1929年)からトーキーに移った。1930年代は『暗殺者の家』『三十九夜』『バルカン超特急』などで成功し、1939年にセルズニックと契約して渡米した。最初の『レベッカ』(1940年)はアカデミー賞作品賞に選ばれた。1950年代以後は、『見知らぬ乗客』『裏窓』『めまい』『北北西に進路を取れ』『サイコ』『鳥』などで高い評価と興行的成功を収め、1955年にはアメリカ市民権を取得した。独自の作風は「ヒッチコック・タッチ」と呼ばれ、登場人物の視線で描いて観客をのぞき見の立場に置くことや、犯人に間違えられた男と洗練された金髪の美女が主人公になる筋立て、サスペンスとユーモアの組み合わせを特徴とする。「サスペンスの巨匠」と呼ばれ、ほとんどの作品に小さな役で出演し、テレビ番組『ヒッチコック劇場』の案内役も務めた。1968年にアービング・G・タルバーグ賞を受け、亡くなる4か月前の1979年12月に大英帝国勲章を授与された。1980年4月29日に死去した。
同じ年に亡くなった人物
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