HISTORICAL PERSON · 1980年没

ルイス・マイルストン

アメリカの映画監督。「戦争映画・反戦映画の巨匠」と呼ばれた。ベッサラビア生まれで、第一次世界大戦中に新兵向けの教育映画の製作に関わった。

生涯
1980年没
死亡地
アメリカ合衆国(カリフォルニア州 / ロサンゼルス)
出生地
モルドバ共和国(キシナウ)
出典
世界地図
アメリカ合衆国(カリフォルニア州)

伝記

ルイス・マイルストンは、1895年9月30日にロシア帝国ベッサラビアの首都キシナウ、現在のモルドバのキシニョフで生まれたアメリカ合衆国の映画監督である。生まれた時の名はライブ(またはレフ)・ミルシテインといった。裕福な名家のユダヤ系の家庭に生まれ、初等教育はユダヤ人の学校で受けた。劇場に熱中するのを家族に反対され、工学を学ぶためにドイツのザクセンのミットヴァイダへ送られたが、地元の芝居を見に行って授業を怠り、単位を落とした。ベルギーのヘント大学に学んだともいわれる。演劇の道に進もうと決意し、片道切符を買ってアメリカへ渡り、1913年11月14日、18歳になって間もなく、ニュージャージー州のホーボーケンに着いた。

ニューヨークでは生計を立てるのに苦労し、守衛や訪問販売員、レース編み機の工員などをした後、1915年に肖像と舞台の写真家の職を得た。1917年、アメリカが第一次世界大戦に参戦した直後に陸軍通信隊に入り、写真部門で空中撮影の訓練を受け、新兵向けの教育映画を手伝い、戦場の記録映像を編集した。同じ部隊には、のちのハリウッドの監督ジョゼフ・フォン・スタンバーグやヴィクター・フレミングがいた。1919年2月に除隊し、直ちにアメリカの市民権を得て、姓をマイルストンに改めた。通信隊で知り合った独立プロデューサーの口利きで、ハリウッドで助手編集者の職を得た。

ハリウッドに来た当初も金に困り、賭博場でカード配りをして食いつないだこともあるという。週20ドルの仕事から出発し、ヘンリー・キングの助手などを経て、編集者、脚本の共作者、喜劇俳優ハロルド・ロイドのギャグ作家など、与えられる仕事を何でも引き受けた。映画を立て直す腕を評価され、「映画の医者」と呼ばれるようにもなった。1925年に『裏表七人組』で監督デビューした。第1回アカデミー賞では『美人国二人行脚』(1927年)で喜劇監督賞を受けたが、この賞は第1回のみであった。最初の5本はコメディ専門だったが、『暴力団』(1928年)のリアルなギャングの描写で注目された。

1930年の『西部戦線異状なし』でアカデミー賞の作品賞と監督賞を受賞し、トーキー映画初期の職人監督としての名声を確立した。1931年の『犯罪都市』では、新聞記者たちの特ダネ合戦を描く社会派コメディで、抜群のコメディ・センスを示した。この作品は、のちにビリー・ワイルダー監督によって再び映画化されている。サマセット・モーム原作の『雨』(1932年)や、スタインベック原作の『廿日鼠と人間』(1939年)も、リアリズム描写による文芸映画の傑作として記憶されている。第二次世界大戦後は戦争映画や文芸映画を撮ったが、あまり目立たなくなった。意外な作品で閃きを残したのが、元空挺部隊の仲間たちがラスベガスのカジノを襲う『オーシャンと11人の仲間』(1960年)である。この作品は、のちにスティーヴン・ソダーバーグ監督によって再映画化されて人気を集めた。最後の作品は1962年の『戦艦バウンティ』である。仲間たちから「ミリー」の愛称で敬愛された人物で、1980年9月25日に死去した。

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