伝記
ジョン・ウィンストン・オノ・レノンは、1940年10月9日に生まれ、1980年12月8日に没したイギリス出身のシンガーソングライター、ギタリストである。ビートルズを創設したリーダーで、ボーカルやギターを担当し、ポール・マッカートニーと「レノン=マッカートニー」として多くの楽曲を作った。1965年にはMBE・大英帝国第5級勲位を受章している。
第二次世界大戦のドイツによる空襲下のリヴァプールで生まれた。アイルランド系の父は労働者階級の商船の乗組員で航海中であり、イングランド人の母ジュリアは他の男性と同棲していたため、母の長姉の「ミミ伯母」とその夫に育てられた。ジョンの名は父方の祖父から、ウィンストンの名は当時の首相チャーチルにちなむ。1946年に帰国した父に引き取られて数週間暮らしたが、母に連れ戻され、父は家出して行方不明になった。学業の成績はとても悪く、小学生のころの通知表には「成績は、最低。望みなし。クラスの道化者」と書かれていた。
1956年にエルヴィス・プレスリーの「ハートブレイク・ホテル」を聴いてロックンロールに衝撃を受け、通信販売で初めてのギターを買った。母が近くに住んでいると知って通い、母にバンジョーのコードを教わった。1957年に「クオリーメン」を結成し、7月6日にマッカートニーと出会って、10月18日にバンドへ加入させた。1958年2月にはマッカートニーの紹介でジョージ・ハリスンを加えた。7月15日、非番の警察官が運転する車に母がはねられて死亡し、この出来事は、母を乳癌で亡くしていたマッカートニーとの友情を固めた。成績が最低クラスの最下位だった彼は、絵が上手いことを知った校長の計らいで、リヴァプール・カレッジ・オブ・アートに入学し、そこで最初の妻となるシンシア・パウエルと出会った。
リヴァプールのほか、西ドイツのハンブルクのクラブでも演奏を始めた。1960年にはスチュアート・サトクリフがベースで加わり、バンド名は「ビートルズ」になった。サトクリフは1961年に脱退して画家を目指し、まもなく脳出血で死去した。1961年12月、レコード店経営者のブライアン・エプスタインとマネージメント契約を結び、デッカ・レコードの審査に落ちたが、1962年6月にEMIパーロフォンと契約した。8月にピート・ベストが解雇され、リンゴ・スターが加入し、10月5日にレコード・デビューを果たした。8月23日にシンシアと結婚し、1963年4月8日には長男ジュリアンが生まれたが、両親と生活したことのないジョンは、わが子への接し方がわからなかったという。
1966年3月のインタビューで「今やビートルズはイエスより人気がある」と発言し、同年7月にアメリカで再び取り上げられると、保守的な宗教団体が大規模な抗議を行った。ラジオ局はビートルズの曲を放送禁止にし、レコードが燃やされた。8月11日にシカゴで釈明会見を行い、ヴァチカンもその謝罪を受け入れた。1966年、ロンドンの画廊でオノ・ヨーコと出会い、1968年にシンシアと離婚し、1969年3月にジブラルタルでオノと結婚した。二人はアムステルダムなどで「平和のためのベッド・イン」を行って、平和活動を展開した。1970年のビートルズ解散後はアメリカに移住し、ソロとして、またオノと共に活動した。1975年から約5年間は音楽活動から引退し、1980年に復帰したが、同年12月8日、ニューヨークの自宅前で銃撃されて死亡した。2002年には、100名の最も偉大な英国人の一人に選ばれ、ミュージシャンとしては最高位の8位となった。
同じ年に亡くなった人物
- リリアン・ランドルフ (1980年没)
- アフマド・シュケイリ (1980年没)
- フリードリヒ・ホスバッハ (1980年没)
- ローズ・ヴァラン (1980年没)
- カール・エーベルト (1980年没)
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