伝記
アタワルパは、1502年ごろに生まれ、1533年に処刑された、インカ帝国の実質的に最後のサパ・インカ(皇帝)である。父は第11代皇帝ワイナ・カパックで、在位は1532年から1533年とされる。生まれた場所については史料に食い違いがあり、クスコとする説と、キトとする説があるが、ペルーの歴史家の多くは、クスコ生まれで母はインカ家の王女だったとする。キト起源の説は、ワスカル側が彼を簒奪者や庶子と見せるために作ったとみる立場もある。
ワイナ・カパックは、自らの母の出身地であるキトを愛して帝国の第2の首都としたため、晩年にはインカ貴族がクスコ派とキト派に分かれて対立していた。ワイナが伝染病で亡くなり、皇太子ニナン・クヨチも同じ病で間もなく没すると、帝国はワスカルとアタワルパの二人の兄弟の間で分けられた。ワスカルは首都クスコを含む大半を、アタワルパは第2の首都キトを含む北部を得た。2、3年は平穏に分割支配が続いたが、ワスカルはワイナと、その妹にあたる正妻の子であったため、自らが正統な皇帝だと考え、アタワルパに忠誠を誓うよう要求した。これを拒否したことから内戦が始まった。
帝国の大半を押さえたワスカルは大軍を率いて北へ侵攻し、間もなくアタワルパを捕らえた。アタワルパはキトに幽閉されたが、少女の助けで脱走し、将軍たちと合流して兵を集め、チンボラソの戦いでワスカルを破った。ワスカル側についたことを理由に、ある町の住民を皆殺しにしたともいう。内戦は終結し、ワスカルは武装解除されて捕らえられた。アタワルパは皇位を請求するためキトを出発し、自らの皇帝就任を宣言し、クスコへ南下する途中、8万人に及ぶ兵とともにアンデス山中のカハマルカへ立ち寄った。
そのころ、スペイン人のコンキスタドール、フランシスコ・ピサロは、1532年7月にペルー最初の植民都市ピウラを建設していた。2か月の行軍ののち、兵168人とともにカハマルカに到着し、エルナンド・デ・ソトらを使節としてアタワルパのもとへ送った。ドミニコ会修道士バルベルデ神父は、通訳を通じて皇帝と臣民にキリスト教への改宗を要求し、拒めば教会とスペインの敵とみなすと伝えた。アタワルパは「誰の属国にもならない」と反論し、スペインの駐留を拒んだ。聖書を渡されると、「なぜこれは喋らない」と尋ねて地面に投げた。インカには書き文字がなかったための行為だが、スペイン人には戦いの口実を与える結果となった。1532年11月16日、神父の叫びを合図に射撃が始まり、2時間で7,000人以上の非武装のインカ兵が殺され、アタワルパは輿から引きずり下ろされて投獄された。
アタワルパは、金銀を与えれば釈放されると考え、部屋一杯の金と銀の2部屋分を提供することに同意した。だがピサロに釈放の意思はなかった。数か月後、スペイン人は、キトの守備隊のルミニャウイ将軍の兵力を恐れ、アタワルパを処刑することにした。模擬裁判で、偶像崇拝と兄ワスカルの殺害などを理由に、火刑の判決が下された。インカの宗教では焼死した魂は転生できないとされ、アタワルパは恐れた。バルベルデ神父の勧めに従って洗礼を受け、フランシスコの洗礼名を与えられ、火刑に代えて鉄環絞首刑となった。罪状は12件にのぼったが、でっち上げとされる。皇帝位はその後、傀儡皇帝トゥパック・ワルパ、弟マンコ・インカ・ユパンキに引き継がれたが、実質的な権力を持つ最後の皇帝はアタワルパであった。
同じ年に亡くなった人物
- フレゼリク1世 (デンマーク王) (1533年没)
- ドワーティ・パチェーコ・ペレイラ (1533年)
- フアン・デル・エンシーナ (1533年没)
- スルタン・サイード・ハン (1533年没)
- ヴァシーリー3世 (1533年没)
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