伝記
メアリー・テューダーは、1496年3月18日にシーン宮殿で生まれ、1533年6月25日に没した、イングランド王ヘンリー7世と王妃エリザベス・オブ・ヨークの娘である。フランス国王ルイ12世の王妃となり、フランスではマリー・ダングルテールと呼ばれる。ルイ12世の死後は、イングランド貴族の初代サフォーク公チャールズ・ブランドンと再婚した。孫にジェーン・グレイがいる。王妃であったのは3か月ほどだが、公爵夫人となったのちも「元フランス王妃」と呼ばれ、英語では「クイーン・メアリー」と称される。
第5子で、幼児期を過ぎて生き残った子の中では最も年下であった。6歳のとき、女官や家庭教師、医師を備えた自分の家政を与えられ、フランス語、ラテン語、音楽、舞踏、刺繍を学んだ。兄で後のヘンリー8世とは幼いころから親しく、兄は最初に生き残った自分の娘、後のメアリー1世に、妹にちなんだ名を付けた。母を失ったのは6歳のときで、1504年から1509年に薬剤師へ払われた記録の多さから、体は弱かったらしい。若いころはヨーロッパで最も美しい王女の一人として知られ、エラスムスは「自然はこれ以上美しいものを作らなかった」と評した。1507年にはのちの神聖ローマ皇帝カールと婚約したが、1514年に破棄された。
枢機卿ウルジーが対仏和平の条約をまとめ、メアリーは18歳で、52歳のルイ12世と結婚した。結婚は1514年10月のことで、アビヴィルで行われたとされる。アン・ブーリンを含む何人かの女官がフランスへ同行し、幼いころからの養育係ギルフォード夫人が筆頭女官を務めた。このときメアリーはすでにチャールズ・ブランドンと恋愛中で、兄ヘンリー8世に、一度は政略結婚を引き受ける代わり、夫の死後は好きな人と結婚させるよう約束させたという。
祖父ほどの年齢のルイ12世は、結婚後3か月に満たない1515年1月1日に亡くなった。死因は、狩猟や宴で夫の体力を奪ったためとする噂もあるが、痛風の影響の可能性が高いとされる。ヘンリー8世は約束を守る気などなく、次の結婚を考えていた。だが、ルイの後を継いだフランソワ1世がヘンリー8世とほぼ同い年でライバル心を持っていたため、メアリーはフランスでチャールズと結婚してしまう。ヘンリー8世は、チャールズをフランスに遣わす際に、妹に求婚しないよう誓わせていたが、メアリーがチャールズにその誓いを破るよう説得し、二人は1515年3月3日にパリで密かに結婚した。これは国王の同意なしに王女と結婚するという、形式上の反逆罪にあたり、ヘンリー8世は激怒し、二人の帰国を禁じたが、莫大な金を支払って帰国が許された。
メアリー自身が歴史上重要な役割を果たすことはなかったが、サフォーク公との間に4人の子をもうけ、長女フランシスの娘である孫のジェーン・グレイは、エドワード6世の遺言により即位し、王位簒奪者として処刑された。ジェーンの妹たちも後にエリザベス1世の次の王位継承候補者となった。義姉キャサリン・オブ・アラゴンとは懇意で、1520年代後半、ヘンリー8世がキャサリンと離婚してアン・ブーリンと再婚しようとした際には、兄とアンに対立し、キャサリンを懸命に擁護した。そのため、ヘンリー8世を支持する夫チャールズとも対立するようになったとされる。
同じ年に亡くなった人物
- フアン・デル・エンシーナ (1533年没)
- スルタン・サイード・ハン (1533年没)
- ルドヴィーコ・アリオスト (1533年没)
- ルーカス・ファン・レイデン (1533年没)
- フィリップ1世 (バーデン辺境伯) (1533年没)
同じ地域に関係する人物
- ウィリアム・オルウィン (1985年没)
- Elizabeth Jane Howard (2014年没)
- エメリック・プレスバーガー (1988年没)
- バイオレット・ジェソップ (1971年没)
- トマス・ハワード (第2代ノーフォーク公) (1524年没)