伝記
ウィリアム・シャンクリー、通称ビル・シャンクリーは、1913年9月2日にスコットランドのエアシャー州にある小さな炭鉱の村グレンバックで生まれた、サッカーの選手であり指導者である。当時の村の人口は約700人であった。両親のジョンとバーバラは、10人の子供、5人の息子と5人の娘とともに暮らし、ウィリアムは9番目の子で、末の息子だった。家族の間では「ウィリー」と呼ばれた。父は郵便配達員から、手作りの紳士服の仕立屋になった。5人の兄弟は全員がプロのサッカー選手になり、本人は、全員が全盛期なら世界中のどの5人兄弟にも勝てたと語っていた。兄のボブは監督としても成功し、1962年にダンディーをスコットランド選手権の優勝に導いた。自伝には、育った時代は厳しく、とくに冬は飢えが常態だったと書いている。友人たちと近くの農場から野菜を盗み、荷馬車からパンやビスケットや果物を、炭鉱から石炭の袋を盗んだことも認めた。5歳から14歳まで学校に通い、家でも学校でも規律は厳しかったが、それが人格形成に役立ったという。好きな科目は地理で、機会があればサッカーをしたが、学校に組織だったチームはなかった。1928年に学校を出て、兄のボブとともに地元の炭鉱で働いたが、2年後に炭鉱が閉鎖されて失業の危機に直面した。
現役時代は、守備的な右のハーフとしてプレーし、スコットランド代表に12試合出場した。うち7試合は戦時中の試合である。カーライル・ユナイテッドで1シーズンを過ごしたあと、キャリアの残りをプレストン・ノースエンドで過ごし、1938年にはFAカップを制した。しかしキャリアの絶頂期に第二次世界大戦が起こり、王立空軍に従軍して、キャリアは妨げられた。戦争が終わりリーグ戦が再開されたあと、わずか数年で現役を退き、1949年に引退して、監督業に就いた。カーライル・ユナイテッドに戻って監督を務め、その後グリムズビー・タウン、ワーキングトン、ハダースフィールド・タウンを率いた。
1959年12月に、当時2部のリヴァプールの監督に就任した。ボブ・ペイズリーとジョー・フェイガンの二人をコーチとして従え、8年間も2部に低迷していたチームを立て直し、就任3年目にして1部に引き上げた。1964年には昇格2年目で1部優勝を果たし、翌1965年にはクラブ史上初のFAカップを獲得して、リヴァプールを強豪に仕立てた。1971年にはケビン・キーガンを獲得し、1973年にはクラブ初の国際タイトルとなる、欧州サッカー連盟主催のカップ戦を制した。クラブのホームの色が全身赤に変わったのも、「ユール・ネヴァー・ウォーク・アローン」がクラブの歌になったのも、この時期である。アンフィールドの選手入場通路にある「ここがアンフィールドだ」と記した飾り板は、シャンクリーの発案である。1974年に2度目のFAカップを制した試合の数週間後に、突然の引退を発表し、15年間率いたクラブを去った。後任は、長年の助手ペイズリーであった。
低迷していたリヴァプールを立て直し、1970年代から80年代にかけての黄金時代の基礎を築いた功績により、大英帝国勲章のOBEの称号が与えられた。1981年9月29日に没した。68歳であった。アンフィールドの前には、銅像と、「シャンクリー・ゲート」と名付けられた門がある。史上最高の監督の一人とされ、2002年にイングランドのサッカー殿堂、2004年にスコットランドのサッカー殿堂の最初の殿堂入り者の一人となった。
同じ年に亡くなった人物
- ロス・マーティン (1981年没)
- タデウシュ・バイルト (1981年没)
- ジム・デイヴィス (俳優) (1981年没)
- エリック・ウィリアムズ (1981年没)
- ヘルマン・エッサー (1981年没)
同じ地域に関係する人物
- ビリー・リッデル (2001年没)
- デヴィッド・ジョンソン (サッカー選手) (2022年没)
- エリック・ブリストウ (2018年没)
- ボブ・ペイズリー (1996年没)
- ブライアン・ラボーン (2006年没)