伝記
ベルトルト・コンラート・ヘルマン・アルベルト・シュペーアは、1905年3月19日にバーデン大公国のマンハイムで生まれた、ナチス・ドイツの建築家、政治家である。母はルイーゼ・マティルデ・ヴィルヘルミーネ(旧姓ホメル)で、兄にヘルマン、弟にエルンストがいた。父アルベルト・フリードリヒはマンハイムでも名の知れた裕福な建築家で、祖父ベルトルトもドルトムントで成功した建築家であり、シュペーア家に財をなした。生まれたころの一家は大変裕福で、第一次世界大戦で節約を迫られるまで自家用車を2台持っていた。上級実科学校では数学で最優秀の成績をとり、初めは数学者になることを夢みたが、父の反対に遭い、父や祖父と同じ建築家の道を歩むことになった。
中央の有名な大学で建築を学ぶ夢は、1923年のハイパーインフレーションで断たれ、カールスルーエ工科大学に進学した。1924年、インフレが安定化したころにミュンヘン工科大学へ、1925年にはベルリン工科大学へ転学し、有名な建築家で機能主義者のテセノウの指導を受けた。1927年に試験を通ったあとテセノウの助手となり、翌1928年に結婚した。テセノウはナチズムに賛同しなかったが、学生にはこれに賛同する者が多く、シュペーアはベルリンのビアホールで行われる党集会に行くよう勧められた。1930年12月の集会で初めてヒトラーを見て、その人物に強い影響を受けたと、のちに述べている。1931年3月1日にナチ党に入党した。1932年にはマンハイムで建築家として独立したが、仕事は少なかった。同年7月、党の選挙運動のために赴いたベルリンで、ゲッベルスの党大管区の建物の改修を請け負い、これが重大な転機となった。1933年3月には宣伝省の建物の改修も任された。ゲッベルスは仕事ぶりに感銘を受けてヒトラーに紹介し、総統官邸の改修を手伝うよう命じられた。こうして、ヒトラーの内輪の仲間の重要な一員となった。
1934年1月21日にトローストが死去すると、党の主任建築家の地位を引き継いだ。初期の仕事の一つが、映画『意志の勝利』の舞台となったニュルンベルクの党大会会場である。ペルガモンの大祭壇を参考にして、24万人を収容できる規模に拡大した。1936年の党大会では、パレード会場を130基の対空サーチライトで囲み、夜間に垂直に照射して「光の大列柱」を作り出した。設計にあたっては「廃墟価値の理論」を創案し、新築の建築は数千年先に美学的に優れた廃墟となるべきだと唱え、ヒトラーはこれを熱烈に支持した。1937年のパリ万博ではドイツ館を手がけ、ソ連館と並んで金メダルを同時受賞した。同年1月30日には帝国首都建設総監に任ぜられ、ベルリンを首都にふさわしく造り替える「ゲルマニア計画」を統括した。長さ5キロの南北軸の大通りに沿って巨大な官庁街を並べ、北端には国民ホールを建てるはずだったが、計画の大半は実現しなかった。1939年に第二次世界大戦が始まると、多くが計画のままで止められ、1941年12月には、自ら計画の中止を申し出た。
1942年2月7日に軍需大臣のフリッツ・トートが飛行機事故で死去すると、後任に就任した。はじめは門外漢として固辞したが、ヒトラーの熱心な要請に押された形である。第二次世界大戦におけるドイツ経済に大きな影響をもたらした。終戦後のニュルンベルク裁判では有期刑の判決を受け、釈放後は、ナチス時代の証言者として広く知られた。しかし没後の研究では、その証言の信憑性に疑問が持たれている。1981年9月1日に没した。
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