伝記
宋慶齢は、1893年1月27日、客家の宋嘉澍(チャーリー宋)と倪桂珍の次女として、上海で生まれた。生地の正確な場所については議論がある。姉に宋靄齢、妹に蔣介石夫人となる宋美齢があり、三姉妹の一人として総称される。弟には宋子文がいる。父は実業家で宣教師でもあり、1880年にアメリカで洗礼を受けて、1886年に宣教の仕事のため中国に戻った。母は宣教師の家系に生まれ、アメリカ人宣教師の運営する学校で学んで父と出会った。父は娘たちにアメリカでメソジスト式の教育を受けさせようと考えていた。慶齢は上海の女学校で学び、1907年、14歳でアメリカに留学した。ジョージア州のウェスレイアン大学で文学の学士号を得て、1913年に帰国した。
1914年からは、父が支援していた孫文の英文秘書を務めた。1915年10月25日、東京で孫文と結婚した。孫文は26歳年長で、前妻の盧慕貞との間に、慶齢より年上の子の孫科がいたため、結婚には反対があったが、宋美齢の賛成を受け、上海から日本に向かい、孫文の離婚が成立した後に結婚したとされる。結婚後は孫文の活動を支え、1922年に陳炯明による六・一六事変に遭い、流産を経験した。孫文の死後、1926年1月に中国国民党の中央執行委員に就いた。1927年に蔣介石が上海で四・十二事変を起こすと、孫文の「聯俄容共」政策を堅持する立場から非難し、蔣介石や宋一族との対立を深めて、汪兆銘の武漢政府に身を寄せた。7月に抗議の声明を発表して蔣介石派と決別したが、汪兆銘も共産党の粛清に着手したため、8月にソ連へ渡った。スターリンによる粛清と、中国革命への冷淡な態度に幻滅し、中山陵の完成式典の際に帰国して、1929年に国民党を脱退した。
香港に居を構えた後、1936年に西安事件が起こると、国共合作の推進を提唱した。国共合作の成立後も国民党への再加入は見送り、宋家の三姉妹は抗日統一戦線の象徴として、戦地の慰問などを行った。1948年1月には、国民党革命委員会の第一次代表大会で名誉主席に選ばれている。1949年に国共内戦が終わると、台湾に逃れた蔣介石夫妻と別れ、大陸に残った。中華人民共和国の成立後は中央人民政府の副主席となり、中華全国婦女連合会の名誉主席に選ばれた。政治的な実権はなかったが、婦人の保健衛生や文化教育の活動に力を尽くし、1951年にスターリン平和賞を受け、その賞金をもとに上海に婦幼保健院を建設した。1959年4月に国家副主席に就任した。
文化大革命では、蔣介石の義姉であることから批判を受け、両親の墓が破壊された。ただ「保護対象名簿」の第一位として守られ、直接の迫害は及ばなかった。1968年に国家主席の劉少奇が打倒されると、董必武とともに国家副主席として主席の職務を代行した。1976年には朱徳の死去により、全人代常務委員長の職権も代行した。1981年5月、慢性リンパ性白血病で危篤となり、中国共産党の正式党員に承認されて、名誉主席の称号を授けられた。5月29日、北京で88歳で亡くなった。孫文の妻として「近代中国の母」とも呼ばれ、周恩来は彼女を「国の宝」と敬った。墓所は故郷の上海にあり、宋慶齢陵園として整備されている。
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