伝記
ハインリヒ・コルネリウス・アグリッパは、16世紀ルネサンス期のドイツの魔術師、人文主義者、神学者、法律家、軍人、医師である。通常はアグリッパと略され、名乗った「フォン・ネテスハイム」は、貴族の家柄を示すとも読めるが、由来については、ネテスハイム家という貴族の血筋を示すという説と、ケルンの創設者の名か、その近くのネテスハイム村にちなむという説とがある。1486年9月14日に神聖ローマ帝国のケルン、あるいはそれに近いネテスハイム村で生まれた。生家は裕福で、騎士の称号をもつ家柄だったともいわれる。若くから才能を発揮し、ケルン大学で法律、医学、哲学、各種の外国語を学んだ。この時期に、イタリアのピーコ・デッラ・ミランドラの影響を受けてカバラの研究を始めた。生涯は、本人の書簡や証言、後世の伝記から知られている。
卒業後は神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世に軍人として仕え、フランス王国のドール大学では聖書学を講義した。ヨーハン・ロイヒリンの説を支持したために追放され、ロンドンに逃れた。イングランドでは、ジョン・コレットら人文主義者と交わった。またドイツでは、著名な修道院長ヨハンネス・トリテミウスのもとを訪ね、『隠秘哲学について』の最初の版を見せたという。1508年にはアラゴン王フェルナンド2世に仕えてスペインの軍事遠征に加わり、爆薬を扱ったと伝えられる。1509年には、ブルゴーニュ公女マルグリットを称えるラテン語の論考『女性の高貴さと卓越性について』を書いたが、公刊は1529年のアントワープでのことだった。その後、イタリアのパヴィアで神学を講じ、1518年にフランスのメスで、市庁の法律顧問の職を得た。
メスでは、魔女として告発された農家の主婦を熱弁で救ったが、これがもとでドミニコ会に攻撃され、1520年にケルンへ戻ることになった。以後はスイスのジュネーヴやベルン、フリブールなどで医師を務め、占星術の暦を出版した。1524年にはリヨンに落ち着き、フランス王の母ルイーズ・ド・サヴォワの侍医となったが、王の星占いを拒んで職を失った。1526年には、学問の不確実さを論じた『学問の不確実さと空しさについて』を書いた。魔術には敵対的な立場だが、この懐疑的な内容によって、のちにルーヴェン大学神学部とソルボンヌから断罪された。その後アントワープへ移って、疫病と闘い、ネーデルラント総督マルグリット・ドートリッシュの記録係兼史料編纂官を務めた。
八つの言語を操り、医学や法学、神学、暗号術など多くの分野に通じていたといい、ルネサンスの万能人にも比べられる。思想は、当時盛んだったルネサンスの新プラトン主義の影響を受けており、エラスムスやメランヒトンとも親交があった。主著の『隠秘哲学について』は三部作である。晩年には3度目の結婚をし、ルターの教えにも惹かれたらしく、ケルン大司教が一時保護した。フランスに戻ると、俸給を払わなかったルイーズ・ド・サヴォワに対して書いたために投獄され、釈放されて間もなく、1535年2月18日に、グルノーブルで死去した。人生の大半、大きな黒い犬が付き従っていたといい、それが魔術の嫌疑を招いたと伝えられる。
同じ年に亡くなった人物
- ヨアヒム1世 (ブランデンブルク選帝侯) (1535年)
- グスタフ・トーレ (1535年)
- バルトロメオ・トロンボンチーノ (1535年没)
- ロドリーゴ・デ・トリアーナ (1535年)
- ジョン・フィッシャー (1535年没)
同じ地域に関係する人物
- ヨハン・ヨンキント (1891年没)
- ヘレナ (360年没)
- カテブ・ヤシーン (1989年没)
- ジョニー・セルボ=ギャバン (2006年没)
- ミシェル・ロティート (2007年没)