伝記
キャサリン・オブ・アラゴンは、スペイン語名をカタリーナ・デ・アラゴンといい、1485年12月16日、「カトリック両王」と呼ばれるアラゴン王フェルナンド2世とカスティーリャ女王イサベル1世の末子として、アルカラ・デ・エナーレスで生まれた。名は、イングランドからカスティーリャに嫁いだ曾祖母キャサリン・オブ・ランカスターにちなむ。次姉は後のスペイン女王フアナで、その息子の神聖ローマ皇帝カール5世(スペイン王カルロス1世)は甥にあたる。
当時のイングランドは薔薇戦争が終わって間もなく、ヘンリー7世は国内の安定のため、ハプスブルク家のマクシミリアンなどとの関係を必要としていた。スペインも、東方進出のためフランスを包囲すべく、イングランドとの縁組を望んでいた。こうしてキャサリンと、ヘンリー7世の長男アーサーの縁談が企てられ、1489年3月に大使デ・プエブラが交渉をまとめたが、1492年に双方がフランスと条約を結んで一度破談となり、1497年の新条約で、20万クラウンの分割払いで決着した。兄弟の妻との関係を戒める教会法規のため、教皇ユリウス2世は1498年に特免状を与えている。アーサーは1499年と1500年に代理結婚式を挙げ、手紙のやり取りでキャサリンはまだ見ぬ夫に親しみを抱いたという。
1501年5月21日にグラナダを出発した14歳のキャサリンは、10月2日にプリマスに着き、11月12日にロンドンへ入城した。案内役は12歳の第2王子ヘンリー(後のヘンリー8世)だった。11月14日にアーサーと結婚したが、12月にラドロー城へ移ったのち、アーサーは流行の感冒にかかり、1502年4月2日に急逝した。夫を失ったキャサリンは、ダラム司教館で孤立して暮らした。両親からの直接の慰めの手紙はなく、ヘンリー7世が寡婦財産も生活費も渡さないとしたことでも困窮した。ヘンリー王子との婚約が持ち上がると、アーサーとの間に肉体関係があったか否かが問題となり、神父は「あった」、女官長マヌエル夫人は「なかった」と言い、イサベル女王は後者を信じた。1503年6月23日に婚約が成立し、1504年11月に死んだイサベルは、教皇の特免状を取り寄せて娘の王妃の地位を確保した。
ヘンリー7世は持参金の残額の未払いなどを理由に結婚を認めなかったが、1509年4月21日に王が死ぬと、18歳の新王ヘンリー8世は、喪が明けない6月11日にキャサリンと結婚し、6月30日に戴冠式が行われた。二人の夫婦仲は円満で、キャサリンは政策面でも強い影響力を持った。ただし、たび重なる流産と死産に見舞われ、1511年1月5日に生まれた男児も、わずか52日で亡くなった。1513年、ヘンリー8世がフランスへ遠征する間、キャサリンは摂政を命じられ、スコットランド軍の侵攻に対して反撃を命じ、国王ジェームズ4世を戦死させた。この働きは国民の称賛を受けたが、10月に帰国したヘンリー8世は、それを誇らしく思うと同時に嫉妬したとも伝えられる。この間に、キャサリンはまた流産している。
男児が生まれなかったことから離婚問題が起こり、これがイングランド国教会創設のきっかけとなった。1533年に離婚し、1536年1月7日に死去した。メアリー1世の生母である。
同じ年に亡くなった人物
- ジョージ・ブーリン (1536年没)
- ガルシラーソ・デ・ラ・ベーガ (1536年没)
- フェリーチェ・デッラ・ローヴェレ (1536年没)
- ジョン・ステュアート (1536年)
- トリブレ (1536年)
同じ地域に関係する人物
- バーサ・スワールズ (1999年没)
- メアリー・カートライト (1998年没)
- ドロシー・ギャロッド (1968年没)
- クリストファー・ホグウッド (2014年没)
- ウィリアム・ホッジ (1975年没)