伝記
ジェーン・シーモアは、1508年か1509年に生まれた、イングランド王ヘンリー8世の3番目の王妃で、エドワード6世の生母である。正確な誕生日の記録はない。ウィルトシャーの地方小貴族の出で、父は王室の森の管理官を務めたジョン・シーモア、母はマーガレット・ウェントワースだった。母方の祖先はエドワード3世にさかのぼり、アン・ブーリンとは遠縁の親戚にあたる。父は「宮廷人というより武人」と評された人物で、ヘンリー7世に従ってブラックヒースの戦いに加わり、ヘンリー8世のフランス遠征にも同行した。両親が結婚したのは1494年10月22日で、母が父の死後15年生きて再婚しなかったことは、夫婦仲が良かった証拠と歴史家は見る。
ジェーンは多くのきょうだいのいる家で育ち、幼少期の大半は、実家のウルフ・ホールで過ごしたと思われる。父は女性の教育に理解があったので、読み書きができ、これは当時の多くの女性より進んだ教育だった。ほかに刺繍が得意で、その作品は死後100年以上経っても王室の所蔵品にあった。乗馬や狩りの才もあった。兄のジョンは1510年に若くして死に、幼い弟妹の何人かも早世したため、兄エドワードがシーモア家の中心となり、フランス王妃メアリー・テューダーの家での職を足がかりに出世した。兄トマスも頭角を現した。ジェーンは20歳を過ぎても縁談が来ず、持参金が乏しく、容貌も地味と評されたが、金髪で色白だった。やがて宮廷に職を得て、王妃キャサリン・オブ・アラゴンの侍女となり、のちに2番目の王妃アン・ブーリンの侍女となった。キャサリンとその娘メアリーの信仰心を深く尊敬したという。
1535年9月、王は西部巡幸の途中で、父ジョンが寝室侍従を務めていた関係から、シーモア家の邸宅ウルフ・ホールを訪れた。接待に出たジェーンの控えめでもの静かな態度が王の関心を引いたというが、この見初めは伝説にすぎないともいわれる。ジェーンはヘンリーに言い返したことがなく、アンと違ってカトリックだった。1536年にアンが流産した翌月、王は高価な贈り物をして2人の兄を出世させ、好意を明らかにした。ジェーンは贈り物を返し、王と2人きりにならないよう警戒したが、これは兄弟の指導によるとされる。やがてアンが刑死すると、その翌日に王は婚約を公表し、2週間後に2人は結婚した。ロンドンで伝染病が流行していたため、戴冠式は行われなかった。研究者の中には、ジェーンがアンに追放されたメアリー王女に同情し、宮廷へ呼び戻すよう王に懇願したと述べる者もいる。
1537年に妊娠が発表されると、ロンドンは歓喜に沸いた。ジェーンは男子だと確信し、好物のウズラをフランスから輸入させた。10月12日、難産の末に待望の男子を産んだが、容体は悪化し、洗礼式にも担架に乗せられたまま出席して、10月24日深夜に息を引き取った。産褥熱に感染したとも、洗礼式への出席がよくなかったともいわれる。ヘンリー8世は6人の王妃のうちただ一人、ジェーンにだけウィンザー城の王室霊廟で隣に眠ることを許した。墓碑は彼女を、もう一つの不死鳥に命を与えるために亡くなった不死鳥とたたえている。ジェーンの死後、兄弟のエドワードとトマスは政争に敗れて処刑された。
同じ年に亡くなった人物
- ジル・ヴィセンテ (劇作家) (1537年没)
- ロレンツォ・ディ・クレディ (1537年没)
- バハードゥル・シャー (グジャラート・スルターン朝) (1537年没)
- ヘンリー・パーシー (1537年)
- シャルル・ド・ブルボン (ヴァンドーム公) (1537年没)
同じ地域に関係する人物
- ゾーラ・ハード (2003年没)
- マリー・ドルレアン (1865-1909) (1909年没)
- ウォルター・デ・ラ・メア (1956年没)
- エリザベス1世 (イングランド女王) (1603年没)
- クセニア・アレクサンドロヴナ (1960年没)